今回は法隆寺夏季大学から、私が面白いと思った第一日目の「聖徳太子信仰」、第二日目の「白鳳への想い 双塔伽藍の建立」のサマリーを備忘録として書いてみたいと思います
↓プログラム
第一日目
聖徳太子信仰
聖徳宗管長 法隆寺住職 古谷正覚さん
このお話は、聖徳太子信仰がどのように起こり、広がっていったかを史料を元にして具体的に説かれたものでした
その史料は、年代順に『金堂釈迦三尊像光背銘』『天寿国繍帳』『日本書紀』『法隆寺東院縁起』『別当記』『唐大和上東征伝』『水鏡』『聖徳太子伝私記』『聖徳太子伝暦』で、いつ頃からどのように聖徳太子が神格化され、太子信仰が広まったかについて、史料を一つずつ使って説明されました
太子の神格化が顕著になるのは、『日本書記』の片岡飢人伝説からだそうです
この伝説は、片岡という場所で飢人に太子が飲食と衣服を与えるという話です
その際、太子はその飢人がただものではないことを見抜き、すなわちその飢人は達磨太子の化身だったという、まあよくありそうなオチの話なのですが、
書紀では「聖は聖のことがわかる」と書かれ、ここから太子の神格化が始まったのだそうです
また『東院縁起』では、天平8年(736)には、太子の命日(2月22日)に、行信によって経を読むことが始められたそうで、これは太子信仰の始まりを意味するということです
『別当記』によれば、行信により太子供養の堂として上宮王院が造られ、天平20年2月22日には聖霊会が始められ、貞観元年には道詮により再興されたとあります
『唐大和上東征伝』では、天台の側からの太子信仰が書かれています
すなわち、太子は天台宗第二祖である南岳の恵思の生まれかわりなんだそうです
また、真言の側からは、
『水鏡』に空海が太子の生まれ変わりであると書かれ、
『聖徳太子伝記』では、空海が「日本では太子」「天竺では勝鬘」「唐土では南岳の生まれ変わり」であると書かれているそうです(ボスキャラじゃない?)
そして、あの『聖徳太子伝暦』
実にいろいろと書かれているようなので、箇条書きします
・欽明天皇32年、妃の口から救世観音が入り懐妊、生まれたのが太子(?)
・敏達天皇12年、太子が日羅に会いたいといったが許されず、こっそりと観に行った
すると日羅が太子を素早く見つけて、ただ人ではないと見破った
日羅は太子を救世観音と思って礼拝し、太子が仏法の王となる方だといった
・敏達天皇2年(聖徳太子2歳像の話)
2月15日の釈迦の命日に東に向かい「南無仏」と唱えた
乳母が禁じても唱えることを続けた
合掌の手から舎利が落ちた(夢殿にその舎利が祀られている)
・敏達天皇7年(聖徳太子7歳像の話)
7歳で経巻数百巻読破
・用明天皇2年(聖徳太子16歳像(孝養像)の話)
太子が天皇を看病したため、天皇も仏教に帰依した
この話が元となって、孝養像は袈裟をつけて香炉を持つ
・推古天皇14年(聖徳太子35歳(講賛像)の話)
太子が天皇に勝鬘経の講義をした最後の夜に、一面に蓮華が降った
史料による説明は以上でしたが、その後も太子は観音の化身として、源頼朝や実朝からも信仰されたそうです
また、法然、親鸞、一遍、忍性も太子を信仰し、
とりわけ親鸞は、建仁11年京都六角堂で太子の化身である如意輪観音から夢のお告げを受け、比叡山を下りて専修念仏を始めたんだそう
それだけでなく、太子の墓にも赴き、太子を讃える和讃も多く造ったんだそうです
…というようなお話の内容でした
もしかすると、私の記録に細かい間違いがあるかもしれませんが、お許しを!
第二日目
白鳳への誘い 双塔伽藍の建立
法相宗大本山薬師寺管主 加藤朝胤さん
ちょっとこれは目からウロコの話でした
なにがかというと、東塔・西塔の二塔を擁する「薬師寺式伽藍配置が生まれた背景」が私にとっては意外なことなのでした(知らないのは私だけなのか、はたまた、新説なのか、なんなのか?まあ、読んでみてください)
お話の内容は玄奘三蔵法師から始まりました
玄奘三蔵は当時、西インドの僧真諦(499~569)が漢訳した『瑜伽師地論』の内容がさっぱりわからず(インド人が中国語に翻訳したためニュアンスが伝わらなかったらしい)、自分でインドに経典を取りに行くことにしました
(これが西遊記ですが日本では玄奘三蔵が女性だと思っている人が未だに多いそうですよ…夏目雅子さんは美人ですが、何故玄奘三蔵を彼女が演ずることになったんでしょうね)
玄奘は西インドで「じゃなせーな」という70歳の修行僧に出会います
「じゃなせーな」は書写した経典を「法舎利」と名付け、経蔵ではなく塔(法舎利塔)に収めていたそうです
玄奘は中国に戻り、持ち帰った経典や翻訳した膨大な経典を(じゃなせーなのやり方をまねして)法舎利塔を造って収めました(これが「大雁塔」)
652年のことです
ここから、日本の話です
653年、日本から道昭が遣唐使として中国に行きました
道昭は玄奘から瑜伽唯識を学び、660年帰国し、日本に法相教学を伝えました
同時に、道昭は舎利信仰も伝え、当時すでにあった「舎利塔」だけでなく、経典を収める「経塔」建立の建築様式を確立しました
これが、2塔を擁する「薬師寺式伽藍配置」なのです
ここで、日本の寺院の伽藍配置を時系列で確認します
593年の飛鳥寺式伽藍配置は一塔三金堂、
593年四天王寺式は中門、五重塔、金堂、講堂を一直線状に並べる方式
607年の法隆寺式は、金堂、五重塔を並べ、その奥に講堂がある方式です
ここまでは、法舎利信仰が伝わる前のことなのです
やがて、660年(又は661年)の道昭の帰国により、日本に法舎利信仰が伝わりました
そして、680年には薬師寺が建立されました
「仏舎利」と「法舎利」を収める二塔を持つ薬師寺式伽藍配置がここに始められたということになるそうです
この話、私はかなり驚きました!😳😳
そして、夏の入道雲のように疑問が湧いています
蛇足ですけど、私の疑問も箇条書きしてみます
・仏舎利と法舎利は、それぞれ東塔、西塔のどちらに収められたのでしょうか
・2塔は全く同じ、いわばクローンのような塔かと思っていましたが、役割が違えば、内部の祀り方にも違いが出てくるのではないでしょうか
・仏舎利は小さなスペースがあればよいけど、法舎利はかなり大きな空間が必要なはずです
昭和の勧進の際に書かれた人々の写経(=これも法舎利だとおっしゃっていました)は私の記憶では金堂の上部に収められていると思いましたが、塔には収めないのでしょうか
・新築された西塔と、修復された東塔は、共に内部に釈迦八相図を祀りますが、それぞれの役割や使用する空間の大きさに違いがあるとすれば、同じように八相図を祀って大丈夫なんでしょうか?
おまけ
第四日目
調子丸と顕真
奈良大学・大阪大学名誉教授、斑鳩町文化財活用センター長 東野治之さん
尊敬申し上げる東野先生ですが、お話の内容がややこしくて、書くのは躊躇われます
ですが、当日にパワポで大写しされた顕真像と馬の画像を、落書きで書き写しましたので、似てないけど載せてみます
↑どうぞ、大笑いして、暑さを凌いでください