山の辺の道その1~石上神宮から竹ノ内環濠集落まで | 奈良大好き主婦日記☕

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鎌倉在住
奈良や仏像が好きで子育て終了と共に学び直し大学院博士課程修了、研究員になりました。
テーマは平安後期仏教美術。

明日香村、山の辺の道等万葉集の故地が好きです。
ライブドアにも書いていました(はなこの仏像大好きブログ)http://naranouchi.blog.jp

 
さわやかな秋晴れの一日、いつもの学友と山の辺の道の北半分(石上神宮から長岳寺まで)を歩きました
 
そこは、小さな古墳がたくさんある場所で、道を外れて寄り道ばかり、なかなか前進しない散策となりました(進まないけど、楽しかった)
 
 

今回のスタートは天理駅↓

 

天理駅前には、鏡のレプリカが飾ってありました

近くの杣之内火葬墓から出土した海獣葡萄鏡のレプリカのようです

さすが天理!

 

 

山の辺の道はJR万葉まほろば線に平行して南北に走ります

そのため、今回の起点となる石上神宮にむけて、まず天理駅から真東に歩きます

 

 

↓天理観光ガイドからお借りした地図です

    ☜北方向                  南方向☞

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天理観光ガイド

 

 

石上神宮に行く途中で通ったきれいなイチョウ並木

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黄葉したイチョウ並木はあたりを黄金色に染めていました

 

天理教の大きくて立派な建物↓

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天理教は天保4年(1838)、現天理市の主婦・中山みきが始めた宗教で、中山みきの没後爆発的な発展を見せたそうです

現在、300万人ほどの信者を抱え、天理市はどこも掃除が行き届いてきれいな街です

 

 

しばらくののち

↓石上神宮の道しるべが出てきました

 

 

 

 石上神宮

 

石上神宮に到着しました

 

紅葉の真っ盛りです

 

↓「石上神宮」と書いてある石は「社号標」と呼ぶらしい

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この社号標を左に曲がると、目指す石上神宮があるのですが、

 

曲がってすぐのところには

↓このような万葉歌碑があるらしい(見落とした!←痛恨の一撃ガーン

(…なので、この画像は石上神宮のHPからお借りしました)

柿本人麻呂(万葉集巻4,501)

をとめらが袖ふる山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき吾は

 

この石は、この後に訪れる廃寺、石山永久寺の北門跡にあった敷石だそうです

 

 

↓大鳥居

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石上神宮は、「ヤマト政権の武器庫」としての役割を担い、軍事面を統率した物部氏を氏神とします

 

武器庫としての性格を裏付けるものに、あの有名な「七支刀」があります

これは、長年にわたり神宮に伝世したもので、泰和四年(369)十一月十六日の金象嵌銘を持ち、百済から倭国王に贈られたものであると考えられています

 

https://www.touken-world.jp/tips/32778/

 

 

 

↓石上神宮といえばニワトリです

自由に歩き回る彼らは、きっと美味に違いない(罰が当たりますぞ)

 

自由に歩き回り、自由に叫ぶ

こんな幸福な鳥生があるでしょうか

 

牛くんも登場…鼻がテカテカキラキラですが、やさしい表情をしています

 

 

そろそろ、お参りしましょう

楼門(1218年建立、重文)をくぐり

 

拝殿(鎌倉時代、国宝)

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石上神社は、大神神社が三輪山をご神体とするために本殿を持たないのと同様に、
禁足地を信仰の対象としていました
そのため、本殿がありませんでしたが、大正時代に禁足地に本殿が築造されました(拝殿の背後)
禁足地では、大宮司菅政友が発掘を行い、おびただしい遺物が出土したそうです
(七支刀は古くより伝世し、禁足地の出土品ではありません)
 
ブルー音符むらさき音符ピンク音符
 
 
もう少しゆっくりしていたかったのですが、先を急ぎましょう!
何しろ今日は、行けるところまで行くという予定です
なんなら、「大神神社まで行けるか?」くらいの勢いです
(実際は、大して進まなかったんだけどね)

 

 

↓石上神宮を南に抜けようとするところに、ほとんど読めない歌碑があります

拡大するとかろうじて部分的に字が浮かび上がるので、頑張って調べました

わかったのは、私が全く知らない人の歌ということです

をとめらの袖ふりし社神さびて呼びとよむがに老杉の声(吉田宏)

 

 

↓一方、こちらの歌碑は、名前を知っている人?の歌だった

僧正遍照(古今集248番)

さとはあれて人はふりにし宿なれや庭もまがきも秋の野らなる

この歌の「ふりにし」には、このあたりの地名「布留」の意味が込められています

意味は「古りにし」、つまり古くなってしまった、というもの

里は荒れて、人も古くなった家だからだろうか、庭の垣根も秋の野原のようだ

という意味で、布留にあった家を詠んだのでしょう

 

「ふりにし」の語源の原型「ふる」=「布留」は地名であり、

石上神宮の「石上」(いそのかみ)の枕詞です

いそのかみふる」を詠んだ歌が万葉集に収められています

例えば、次のような歌

 

作者不詳(万葉集巻10、1927)

石上布留の神杉神さびにし我やさらさら恋に逢ひにける

 

柿本人麻呂歌集(万葉集巻11,2417)

石上布留の神杉神さびし恋をもわれは更にするかも

 

地名である「布留」は、平安時代には転じて「古る」となり、

上の僧正遍照の歌のように使われました

↓ (参考)

國學院大学デジタルミュージアム

 

うぉー、もう脱線してしまったアセアセ

先を急がないと…

 

 

「いそのかみ布留」の里あたりの山の辺の道です

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まだまだ午前中ですが、秋のやわらかな光と美しい風景が調和して、

幸せな気分になりました

 

 

しばらく行くと、内山永久寺跡の手前に芭蕉の歌碑がありました

 

松尾芭蕉

うち山やとざましらずの花ざかり

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内山の地に咲く美しい桜の花の開花を、他所者である自分は知るよしもないと嘆いている俳句です

 

 

 内山永久寺跡

内山永久寺は、石上神宮の神宮寺で、金剛乗院と号した真言宗の寺でした


鳥羽天皇の勅願により創建され、年号から永久寺と称したそうです

また、五鈷杵の形をした土地の内に一つの山があったたため、内山と号したそうです

 

後の時代には、後醍醐天皇がここに立ち寄ったため、「萱(かや)の御所」とも呼ばれました

↓「萱の御所」の石碑

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江戸時代の大和で内山永久寺は、興福寺、東大寺、法隆寺に次ぐ待遇を受けたそうで、広大な寺域にはたくさんの伽藍が並び、多くの参詣者でにぎわったといいます

 

↓内山永久寺跡の表示

 

ところが、明治初めには、寺領の返還、土地売却に加え、廃仏毀釈の影響もあり、寺は廃絶してしまいました

その時に、寺の所有した多くの文化財は散逸してしまったそうです

 

↓栄えていたころの内山永久寺の絵図

 

↓見下ろす池から、往時の様子を知るべくもありません

芭蕉は桜の満開を知ることができないと嘆きましたが、現代の私たちは、桜どころか寺があったことさえ知ることができないのです


ここでこそ、芭蕉に

夏草やつわものどもが夢のあと

と詠んでほしかった気がする…


 

一つの希望は、現在の東大寺が、かつて内山永久寺にあった持国天・多聞天(重文)を所蔵するということです

 

それがこの二体↓

持国天立像(重文)東大寺(旧 内山永久寺) 12世紀 201.1㎝

 

多聞天立像(重文)同上 186.5㎝

(上2枚、なら仏像館『名品図録』)

 

 


 なら歴史芸術文化村

ここで、山の辺の道から少し外れて、51号線に向かって少し降りたところにある「なら歴史芸術文化村」に寄り道してみました

 

 https://www3.pref.nara.jp/bunkamura/

 

 

この施設、いつの間にか出来ていたという感じを受けていましたが、

どうやら、2022年3月21日にオープンしたばかりのようです

 

「道の駅」でもあるこの施設は「交流にぎわい棟」で奈良県産の農産物直売所や特産品を売っていますが、

それだけでなく、

文化財修復の様子をガラス越しに見ることができる「文化財修復・展示棟」、

ホールのある「芸術文化体験棟」など、複数の建物から構成され、おまけに隣にはホテルもありました

 

↓なら歴史芸術文化村のせんとくん

 

↓文化財修復・展示棟

 

↓ここには、埴輪なのに木製(!)で寄木造(!)の馬くんがいました(乗れるらしい)

表面ツヤツヤなので、撫でさせてもらいました


 

文化村を出ると、また別の「寄り道」をしたくなりました

 そのわけは、

↓なら歴史芸術文化村の場所を見るとわかります

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そうです

ここは、杣之内古墳群の真ん中なのですよラブ

 

上の地図を拡大します↓

なんと、北西に西山古墳、その南に小墓古墳西乗鞍古墳東乗鞍古墳と、古墳たちが点在しますスター

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この地図をみて、学友はいてもたってもいられない様子ほっこり(←私より変態)


もうお昼の時間ですが、寄り道することにしました

 

 

西山古墳と塚穴山古墳

西山古墳は、国史跡に指定されている古墳だそうですが…

↓現地説明板(錆びてる

 

西山古墳(どの古墳にも言えることだが、近寄るとよくわからない)

 
上の地図で見たように、西山古墳は前方後方墳(前も後ろも四角)
4世紀ごろの築造で、185mの全長は、前方後方墳としては日本最大級だそうです
その頂には、戦時中高射砲が設置されていたそう(なんということを…)

 

↓手前が西山古墳で、写真右奥に見える小さいのが

塚穴山古墳

塚穴山古墳は、直径63mの円墳
物部氏一族の墓と考えられているそうです
天理高校の敷地の一部なのか、高校事務室で手続きをすると見学できるようです
 
この二つの古墳、北を天理高校、南を天理中学に挟まれてます

ちょうどお昼時でしたので、

私たちは、天理中学から下校する生徒を眺めながら、このあたりで座り込んで、持参したおにぎりおにぎりを食べました

 

山の辺の道に行く際には、必ずおにぎりを持参し、どこでも座れる服装で行くことをお勧めします

 

 

 小墓古墳、西乗鞍古墳、東乗鞍古墳…

 

腹ごしらえのあと、51号線をそのまま南下しました(山の辺の道を歩いていたことを、しばし忘れる)

 

↓すると現れたのが

小墓古墳(おばかこふん)

 

おバカ おばか古墳は、ちっちゃな古墳でした

全長80m、前方後円墳だそうです(そうは見えなかった)

小規模ながら、濠からは多量の木製埴輪が出土したそうです

 

 

↓小墓古墳から出土した埴輪たち(木製埴輪はこの中にあるのかしら?)

杣之内古墳群/天理市教育委員会

(↑他の古墳からの出土品等の情報も、このサイトで見られます)

 

↓次は、

西乗鞍古墳

全長120mの前方後円墳

 

桜の花見の名所だそうで、そのためか、

↓「公開中」とある

よしじゃあ、登ってみよう(変態)

 

この古墳の墳丘は、二段に分かれるらしい

↓まず、一段目

 

↓一段目に現れた説明板(説明文は同じですが、写真が違うのでのせます)

 

 

↓二段目に上る

 

↓頂上

見晴らしはよくありませんでした

気が済んだので、西乗鞍古墳を降ります

 


次に向かう東乗鞍古墳は、車道から山の辺の道に戻る途中にあるようです

 

↓途中、はるか南方向に三輪山が見える(あそこまで行けない気がしてきたぞ)

 

↓夜都岐(やとぎ)神社(あとで寄ります)

 


東乗鞍古墳

東乗鞍古墳は、全長72mの前方後円墳


畑に阻まれて、これ以上近づけませんが、

後円部に家形石棺の収められた横穴式石室があるそうです

 

…と、東乗鞍古墳に気をとられているうちに、道を間違えましたガーン

 

 

 広がる山の辺の風景と夜都岐神社

 

しばらくの間、道を間違えて進んでしまいましたが、そこには山の辺の道らしい風景が展開しました

 

柿の実と遥か遠くに見える二上山(手前は夜都岐神社の森)

 

石仏柿の葉

 

桃源郷のような景色

 

景色が山がちになってきていることで、ようやく道を間違えているに気付き、

ひきかえしました

 

↓引き返す途中にあらわれた道しるべ↓

 

間違えてしまった道も、引き返した道にも

山の辺の道の美しい風景が展開しました

 

夜都岐神社の森

 


↓道を確認しました

 

夜都岐神社に到着


 

↓説明は、こちらをどうぞ

 

↓鳥居をくぐります(クルマが停車していて、鳥居正面からの写真が撮れませんでした)

 

↓青空を見上げる紅葉は、とても美しかった

 

↓境内

秋の乾いた空気に鳥の声が響きました

 

 

 竹ノ内環濠集落へ

夜都岐神社の次は、竹ノ内環濠集落を目指します

↓0.3㎞先のようです

 

↓途中の集落には、干し柿がつるされていました

 

 

↓山の辺の道の美しい風景が続きます

 

 

↓西側には、ずっと二上山が見えています

 

↓「長岳寺」の表示が現れて来ました

どうやら長岳寺が、本日の最終目的地になりそうです

 

 

竹ノ内環濠集落に到着

環濠集落は、室町期に外敵に侵入を防ぐため周囲に濠を巡らせた集落を言います

 

竹ノ内環濠集落は、標高100mのところにあり、

環濠集落としては高地なんだそうです

 

↓周濠の一部

今は、集落の西側に濠のあとが残されるだけ


この日は、ここで水彩画を描く人たちがいました

 

環濠越しに見る大和国原

 

↓「竹ノ内町」と書いてあったので撮ってみた

 

現地看板

 

竹ノ内町の南には、もう一つの環濠集落である萱生(かよう)環濠集落があります

 

そこから、長岳寺までの記事は、別の記事としたいと思います

 

とても長くなりましたので、ここでいったん終わりにしますバイバイ