ケビンです


ちょっと今日は硬いですが、なんで僕が原子力、核に興味を持ったかを一人で勝手に語りたいともいます。記憶があいまいなのでまちがっていたらごめんなさい。

そういう感じで読んでください。

まず始めの出会いは学生時代 高専の3年生だったかな「量子力学」という授業で目に見えない「放射線」の事を知りました。なんとなくですが面白いなと思った記憶があります。

でもなかなか難しい授業でテストではさっぱりでした。

ただ記憶に残っている出来事が一つあって、それは実験のとき 自然界にある放射性物質の量を測るという実験だったと思うんですが、サンプルがあってそのサンプルは何の物質だったか覚えてないのですが、取り扱い方を間違えると被曝するから注意して扱うようにと先生が言った記憶があります。そしてその時にもしなにかあったら 私は逃げるから と言った記憶もあります。

半分冗談なのか、気をつけろという意味なのか 分かりませんが、 なんだか恐ろしいなって思った覚えがあります。

別に特段その実験では何もおこらず無事に終了しました。

被曝量も確か大丈夫だったと思います。


そしてその後 研究室に配属になるのですが、うちの研究室は  X線回折装置 が研究室に普通においてあって その横で研究したり、遊んだり普通にしていました。
そして何人かは それを使って物質を同定したりしていました。

別にあまり怖いと思ったことはありません、だけど本来は線量を計測するバッチを常につけて、また記録をとらなくてはいけなかったのに、バッチをつけなかったり、記録をとっていなかったり、管理はずさんでした。

というかそんなに危険なものがおいてあるとはちっとも思ってませんでした。

ただ放射線を遮断する鉛ガラスの扉をあけたときになるピーピーと鳴る音だけは気になっていました。

ある大雨の日です。駅から自転車でずぶぬれで研究室に行ったら、友達があわててきたのを覚えています。

どうしたん?

って聞いたら研究室の一人が被曝したらしいということでした。
なんでそうなったかを聞くと、本来X線回折装置を使用するときは、電子線を出す所にシャッターを閉じて試料の交換などをやらないといけないのですが、その先輩はシャッターを開けたまま交換していたということなのです。

あの「ピーピー」と鳴る音はその危険を知らせる音だったのです。

その先輩は直接放射線を手に何度も浴びていたので、もちろん被曝していて病院で診察を受けていました。

白血球の量が減っていて、どうなるかちょっとわからない状態でした。

心配でした。

そして実ははもちろん放射線の出ている時に鉛ガラスの扉はあいていたのですから、研究室の全員が被曝しているということです。

ただ誰もバッチはつけてないし、線量はわかんなくて。

だけどとても微弱なので影響は無いと先生は言ってました、

本当なのかどうなのか分かんないけど、先生の言うことを信じるしかなくて、他の人は病院にも連れて行ってくれませんでした。

なんだか不信感を感じたのは覚えています。
結局学校は表ざたにはしたくなかったのだと思います。
何もできない自分が悔しかったのも覚えています。

ただの雨の日の出来事で終わりました。

そして僕の中からも忘れていきました。

そして大学に編入したり、休学したり、そして地球一周の船旅ピースボートに乗ったり


そこで出会ったのは 田中 優 さんです。


そのとき僕ははap bankが大好きだったので優さんに合えただけで嬉しくて 銀行の仕組みとか聞いてへぇーって思いました。

そしてピースボートで地球を一周して、日本に帰ってきました。

そのとき極度の違和感に駆られたのを覚えています。


世界にはあんなにたくさん問題があってどこか遠い話しだなぁとおもっていて、
でもみんなであーだこーだ議論していて、

でもふと日本に目を移すと日本もめっちゃ問題が山積してあって。

そして日常に戻っていく自分がいて

こんなん見ない振りしてすごして良いのかなって、思いました。
見ない振りして生きている自分いやだなぁって思いました

そしていろんな問題知りたいなって思って、ネットでいろいろ検索していてたどりついたのが、青森県六ヶ所村にある使用済み核燃料再処理施設の話。
それを講演してる田中優さんの映像。

いろんなことを知りました

原発が一年で出す放射性物質を一日で出すという、恐ろしい話。

そして再処理自体の意味の無さや、プルサーマルのおろかさ、プルトニウムの怖さ、

そして何より何より、自分が知らなかったことの悔しさ!!!!


こんな大きな問題 誰かに押し付けて生きてきた事 正直恥ずかしいって思った。

そんでなんで僕らは知らないのって調べたら、電気会社がスポンサーとなっているから
TVでは原発批判はやれないって

それじゃあどうしたらこのことを伝えれれるかって調べたら「六ヶ所村ラプソディー」という映画があるということを知った、そしたらそれを上映したら多くの人が再処理の問題について考えるきっかけになるって思って、上映会を企画した、

始めはもちろん一人だから多くの人に、会ってお願いして、そしてたくさんの人と出会って、そのときの出会いは今でも続いています。

鎌仲ひとみ監督も本当に素敵な人でした。

そして一人から始まった上映会も多くの人が協力してくれて成功しました。


だけどもっともっと多くの人に知らせたかった。

その時に「豪快な号外」というのをてんつくマンという人が企画しているのを知った、その企画は六ヶ所村再処理工場の事を多くの人に伝えようと 日本の全世帯に号外を配ろうという企画だった。

すごいなーとおもったそのとき大学3年生。

六ヶ所村のこと全世帯に知らせることができたら、きっと世の中変わるんじゃないかって思った。

だけどその企画お金もめっちゃかかかってて、発行だけで総額2億だか3億だかかかります。
どうやってお金を集めるかというと、「100万番長」なる人を募集してその人は募金活動や、なんやかんややって100万円を集めるのです。
そしてその人が200人いれば2億円だし、300人いれば3億円集まるというなんともざっくりした理論w

もちろん大学生の僕がやれるわけもなく、その後の情報を見ていてももちろん、ほとんど誰も声を上げませんでした。

でもそんな状況を見ていてなんだか、みんな勇気ないなぁって思って、じゃあだれもやらないなら俺やろうって思って、勢いで100万番長をやるって決めて手を挙げました。

たぶん学生100万番長でやったのも他にはいなかっただろうし、もちろん最年少だったんじゃないかな。

それからは名古屋も浜松イベントにでては募金活動したり、仲間と一緒にキャンドル作ったりマイはし作ったりして売った。

そしてたくさんの仲間と一緒に、集まったのは2ヶ月で約60万円。

うれしかった。それだけの思いがあることに


だけど

100万円にはどうしても足りなくて悔しくて、僕にはどうしようもできませんでした。


悔しくて1号線の横の芝生で泣きながら仲間に電話しました。

そして ふと途方にくれていると


ある人がぽんと貸してくれました。


それもなんと40万


それは今一緒にお店をやっている人です。


うれしくてこんな何するか分からない若造に貸してくれるなんて、、、




それをもって親不孝な若者は お母さんには内緒で100万円振り込みました。



そして号外も豊橋地域の担当になったので、家に15万部届きました。


重さにして約2トン

僕は大学の寮の4階に住んでいたので、家に入るわけもなく、寮の前にこっそりビニールシートをかけて保管していました。

そして駅前に事務所を借りて、日々配りました、豊橋地域で15万部
もちろん数人で配りきれるわけもなく、期限の前前日に途方にくれてその号外の上で寝たのを覚えていますw

ばかだなーってむりだなーって

でも、あきらめなければ道は開けるものでなんと前日に、豊橋市内の全小中学校に配れることになったのです。

そこからは怒涛の道のりで みんなの協力で何とか何とか配れました。

そのときあきらめなければ道は開けるんだなって実感しました。



そして


六ヶ所村のこと知らせたくって


映画上映して


100万円募金して、


10万部ちょっと新聞配って





でも



なーんにも世の中は変わらなかったです。


そのときはね



だけど僕は大事なものを得ることはできました、
それは「仲間」と「あきらめない心」

本当にこれは僕の唯一誇れるものです。


それからあまりにつかれて、今度は何かみんなで楽しみながら社会活動をしたくって、汚れた表浜にやまだいさんと見に行ってきれいな海にしたくって

50kmの海岸清掃 表浜ブルーウォークを企画しまいた。

そこから今までも 怒涛の日々で めっちゃ泣いて めっちゃ笑って めっちゃけんかして めちゃくちゃ良い仲間に出会えました。

そしてフェアトレードカフェをオープンして、早3年。

仕事始めてからゆっくりどっかに遊びにもいけないし、実家にもあんまり帰れないけど、でも多くの出会いと気づきがあり 大事な毎日を過ごしていました。

そして2011年3月11日を迎えるのです。

そこからは多くのことは言う必要はありませんね。

本当に多くの人が亡くなって、住む所を失って、家族を失って、その悲しみは計り知れないと思います。

だけど 臆病な僕は 動けないでちじこまっていました、なんだかぶるぶる震えて
みっともなかったです。

だけど、やっぱり今まで活動してきて 何かできることをしたいって思いました。
そして募金活動しようって 呼び掛けたら次々にみんなからメールが来て

そのときの嬉しさは今でも鮮明に覚えています。

そこから2週間で約200万円近く募金が集まりました。

本当にみんなの力には感服です。すごいっすよね。

だけどそこから僕のリーダーシップの無さが出て、なんだかしぼんでいっちゃいました。

それは多分僕がいけなかったんです。

いっつも僕が突っ走りすぎちゃうんですね。もっとみんなのこと考えなくちゃいけないのに。






4年前活動を始めたきっかけは原子力のこと、


そしてなんだかんだやっぱり放射能は恐いと思う。

それは目に見えないから。実感がわかないから。年月がたたないと分からないから。

だからごまかせるし、因果関係は無いといわれちゃう。


でもそのままで良いの?

大事な人が病気になってから気付くの?

また繰り返していくの?

それじゃあおそいでしょ?


今ならまだ何とかなると思います。

そしてみんなで取り組めばきっと変えれる。

みんな無力じゃないよ。

動けば変わるって。

みんなで変えていこう。


僕は

日本の全ての原子力発電所が廃炉になって、そして使用済み核燃料棒の最終処分場のことが100%解決するまでやめません。

そう決めました。


だからがむしゃらでも、みっともなくても、何かできることしていきます。