〈御土居下同心屋敷跡〉
ここには 十八軒の 士族(さむらい) 屋敷があり、二の丸警固にあたり藩主危急の際には 常に身辺を護衛した。
組の中に、書画・水泳・
忍術
等に達したものも多く、
南画の 岡本柳南父子なども その一軒であった。
昭和三十三年二月
名古屋市
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岡本柳英著『秘境 名古屋城 御土居下物語』より転載させて頂いた 名古屋市の史蹟標札
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同心(どうしん) とは、下級武士の事である。
御土居下(おどいした) とは、名古屋城の東側から北に広がる地域の事だ。
御土居下同心は、尾張藩主に危険が迫った時に、名古屋城から脱出する手助けをする 密命を担った
隠密(おんみつ) である。
隠密と忍者は どう違うのだろうか。
ざっくりと説明すると、
隠密は幕府等に雇われ、極秘の特命を担った者。
忍者とは、忍術修行をしている所謂(いわゆる)
忍びの者 の事である。
どちらも多種多様であり、両者を兼ねている場合もある。
忍者が隠密として命(めい) を受けたり、隠密としての職務を全うする為に、忍術修行に励む事もある。
御土居下同心の場合は、藩主を護衛するという密命を受けた隠密である。
尾張藩主に危険が迫った時は、名古屋城より藩主を脱出させるのだ。
御土居同心達は、いざという時の為に、武芸十八般の修行に励んだ。
忍術修行に勤しんだ者もいると伝えられている。
万一の時は、藩主を手漕ぎ舟に導き、名古屋城のお堀を経由して安全な場所へ避難して頂くために、舟を操る者以外にも お堀を泳ぎながら護衛等する事を想定し、衣服を着たままでも泳ぐ事が出来る様に、平時から備えたのであろう。
甲冑姿でも泳ぐ事ができる「古式泳法」という 日本の伝統泳法もあるが、御土居同心達がこれを修したかどうかは定かではない。
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忍者(忍びの者)とは、
心の上に刃(やいば) を置いて(忍)、
忍耐の心をもって 心身を精進し、
武芸十八般の修行に励む者の事である。
常に情報を収集し人心を掌握して、不要な闘いを避ける事が 忍者の真骨頂、本来あるべき姿である。
時代劇やアニメに出てくる忍者は 黒装束姿であるが、あんな姿をしていては かえって目立ってしまう。
とても「忍びの」者とはいえない。
忍者といえば 黒装束という認識が一般に広まったのは、歌舞伎や映画・小説・漫画等に 主に悪役として登場する際の演出の影響であると思われる。
忍びの者は、忍者である事がバレない様にふだんは普通の姿をし、市井(しせい) の人(庶民)としての暮らしをしていた。
たとえば、「草(くさ)」と呼ばれる忍びの者は、ふだんは農民として暮らし、その家に伝わる忍術や密命は、一子相伝(自分の子供一人だけに伝え、他の者には秘密にする事)であった。
忍者には 陰忍と陽忍がいる。
所謂 忍びの者は 陰忍であり、ふだんは普通の暮らしをしており、その人が忍者である事はごく限られた人以外は知らない存在である。
その反対に 陽忍という、間逆のスタイルもある。
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御土居下同心は ふだん、週に何度か 名古屋城に通い、尾張藩主のお側(そば) 勤めとして働く以外は、書画や武道など 文武両道の修行に励んでいたという。
名古屋城が築城された頃には、泰平の世になっていたので、御土居下同心達は 尾張藩主を脱出させるという密命を実行する事はなかった。
御土居下同心に課せられた密命を知っていたのは、ごくごく限られた人だけだったので、
後の世に 葵の御紋が入った立派な籠(かご) を返納した時には、一同 たいそう魂消げたという。
密命を頑なに他者に漏らさず、日夜 文武両道に励んだ 御土居下同心達は、本物の 忍びの者であると私は思う。
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〈御土居下同心屋敷跡〉の立て看板は、平成八年に新しくされた。
とても分かりにくい場所に設置されているので、昨日 自転車で現地へ行き、Googleマップに印をつけたものを添付する。
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名古屋市中区三の丸4-2-3
であるが、それをGoogleマップで検索すると、赤い印の位置になる。
しかし、実際に 立て看板が設置されているのは、水色の丸の場所である。
ここは、県職員三の丸住宅の入り口だ。
この地を訪れたい人は、名古屋市営地下鉄名城線「名城公園駅」を南へ歩き、一つ目の信号「名城公園南」を左折し、東へ数分歩くと 正面に「岡本歯科 駐車場」という看板がある三叉路に着く。
そこで右を向くと、「止まれ」の標識があり、その隣に〈御土居下同心屋敷跡〉の立て看板がある。