今月上旬、かねてより闘病しておりました父が鬼籍に入りました。

 

日頃から故人と暖かな交流をいただきました皆様と、

生前経営していた会社のお取引先の皆様には故人に代わりまして厚く御礼申し上げます。

格別のお引き立てを賜り、ありがとうございました。

 

遺志に従い家族にて密葬を済ませ、故人は荼毘に付されました。

本来であればもっと早く連絡するべきところを皆様には事後の報告になりました事、

お詫び申し上げます。

 

葬儀終了時までは東京の親族以外には誰にも連絡しないというのが願いでしたので、

父の最後の我儘という事でご容赦いただけましたらと、切にお願い申し上げます。

 

享年、72歳でした。

 

父から突然「家族だけで話がしたい」と連絡があったのは今年のGWごろでした。

日頃から軽口の多い父が改まっているのは、悪いことがあった証拠。

様々な可能性を頭にしながら帰った先の実家で告げられたのは、

父が悪い病気にかかっているということでした。

 

病名は、膵臓がん。

肝転移が認められ、本人は言いませんでしたが、どこでどう調べてもステージ4でした。

 

「残念ながら、もう長くないよ」そう笑った父は、健康そのもの。

少し痩せたように見えましたが、大酒飲みらしくメタボな姿で

年不相応に元気な、私のよく知る父でした。

 

実際、医師にも驚かれたようなのです。

 

今倒れてもおかしくない数値が検出されているはずなのに、

平気で食べて歩き回って仕事をしている父を見て、

「でも、小越さん、元気だなぁ」と思わずひとりごちてしまうくらいには。

 

程なくして医師から家族向けの説明も受けました。

 

丁寧ながら、はっきりと事実を告げている医師に質問しながら

ふと違和感があることに気が付きました。

 

話が、ゆるやかに噛み合わない。

聞いてる事にこんなにも分かりやすく、はっきりと答えてくれているのに。

 

理由はすぐに分かりました。

 

家族は良くなる方法、寛解への筋道を聞いているのに対して、

先生は医療従事者として大変厳しい状況である事を説明しているからです。

 

なるべく抗がん剤は強すぎないほうが良い

保険外治療もあるにはあるが今の状態ではおすすめできない

ご本人が過ごしたいように過ごしたほうがストレスがない

 

5年生存率を聞いたときに、返ってきたのは半年生存率の話でした。

 

言外に、今後は闘病でありながら終活でもあることが何度も滲みでて、

その僅かにはみ出したニュアンスがいちいち私の心を逆撫でてきました。

 

科学の徒である医師は、寛解の可能性をゼロと言いません。

ほんの小数点以下のわずかでもそこに確率が存在していれば。

 

しかしながら、統計的には今議題にするべきは余命とQOLであると、

先生はそう伝えていたのです。

 

ご本人が、過ごしたいように過ごしたほうがストレスがない

父が選んだ過ごし方は、抗がん剤治療を平行しながら仕事を続ける事でした。

 

新潟から上京してきて、営業マンとして実績を積んだあとに会社を起こした

父にとって、仕事は人生そのものでした。

 

自分の足で少しずつお取引を増やし、子供達を稼ぎで育て、

業界に長くいたからか組合の理事になり、

そして地域への長年の貢献から天皇陛下の璽が入った賞状と勲章も賜りました。

 

そのお祝いをしたのが、去年です。たったの1年前。

 

それから年が回って、自分の余命が宣言されてなお、「来年施工の大型受注」を

気にもんでいるような状態でした。仕事が、人生そのものだから。

 

しかしながら、抗がん剤治療は体力を使います。

 

病巣を除けば健康で、気丈な父も少しづつ体力が削がれていきました。

 

最初の変化は運転でした。得意だった運転がおぼつかなくなり配達に母を帯同

するようになります。もちろん、運転してもらうために。

 

次に歩行でした。急な階段の上り下りが厳しい。もはや一人では配達にいけません。

 

そして決定打は転倒です。本当になんでも無いところで転んでしまった。

 

ころんだ父は顔に怪我をし、やや久しぶりに会うと情けなさそうに少しはにかみました。

病気に見えないじゃないかと思っていた父はだいぶ痩せ細り、

年相応の深い皺が喉に目立つようになりました。

 

ある時、家族全員で仕事をやめることを説得しました。

本人だって嫌というほど分かっている体の状況を理由に家族が真剣な顔を

しているのを見て、「もう辞めるよ。配達もやらない」そう吐き捨てたのが答えでした。

 

ついに、言ってしまった

 

その時の父の顔に、はっきりそう書いてありました。

ずっと続けてきた仕事です。人生であった仕事です。それをやめると言った時、

本当に寂しそうな顔をしていました。

 

今思えば、父は家族の誰かに「まだやれるよ」と言ってほしかったのかもしれません。

仕事をやめるとはまた、彼にとって身体機能の低下をはっきりと認めるものだったから。

 

病魔が父の体力を奪っていきましたが、

仕事をやめた事はある種の気力を奪ったように思います。

 

そこからあまり歩かなくなっていった父は衰えていき、腹水がたまるようになりました。

そろそろ緩和ケア病棟への入院も考えたほうが良いのではないか。

そう思って入院先が決まった矢先、苦しさを訴えた父は緊急入院をします。

 

そして、様態が急変したのが翌日。

 

意識が途切れる直前まで会話が可能で、看護師さんに「痛みが楽になりました。ありがとう」

と言っていたようです。

 

父が急変した当日は急な予定変更がたくさんあり、

ご協力をいただいた皆様ありがとうございました。

そして、ご迷惑をおかけいたしました。

 

さて

 

私が今このブログを書いているのは、故人を偲ぶためでもありますが、

私の内面に向き合うためでもあります。

 

父を喪った事は私にとってとても悲しい出来事ですが、

同時に私は自分の中にある、ある種の薄情さに気が付きました。

それを吐き出さなければ、区切りがつかないと思ったからです。

 

それはひとつ私は既に自分の家庭を持っていて、

父と違う人生を明確に歩んでいると感じた事です。

私が実家を出て、配偶者と暮らすようになってそろそろ20年近くになります。

子供も3人います。

 

父の病状を聞いた時、家族と相談している時、少しづつ痩せて行く父を見ている時、

私の心には確かに非日常的な哀しみがありました。

 

しかし同時に、私自身の家は相変わらず日常の延長線上にあって、父が闘病している間も

長男はYouTubeを見すぎて怒られ、長女は宿題を邪魔されて次男を怒り、

次男はマイペースにお菓子を食べています。

 

仕事もあるし、会食も行っていました。哀しみは常にうっすらと私の中にありましたが、

心を乱して何も手に付かない。そういうしおらしさが自分の中に無いことを知りました。

 

私と違い、姉と母は父と同居していました。

日常を過ごしている2人のLINEには、手触りのする苦悩が綴られています。

 

小説『ノルウェイの森』で、介護経験者の登場人物が、こんなような事を言う場面があります。

 

「たまにくる親戚が、『かわいそうでかわいそうで胸がいっぱい。食欲もわかない。

あなたは食べられて強いわね』と言ってくる。冗談じゃない。日々苦労して介護しているのは

私。うんこを片付けるのは私なの。同情でうんこが片付くなら百万遍、同情するわよ」

 

自分がまさか、その親戚側か。私の中の薄情さに気づいた時に思いました。

 

父の名誉のために言うとうんこが片付けるのが大変な時期があったわけではありません。

念の為。

 

語弊を恐れずに言うと、ひとつだけ良いことがありました。

それは、父の意識は最後までかなりはっきりとしていたのでいろんな事を話せた事です。

 

どう最期を迎えたいか、どういう葬式が良いか、事業はどうするか。

誰に、どんなタイミングで連絡するべきなのか。

 

そういう事を何度か話して、ひとつづつ片付けて行くことで、自然と最期の日に向けて

一緒に歩んだように感じます。

 

ですから、悲しみの中にあって、父が他界した事自体は自然と受け入れられました。

突然ではなく、そうした準備を進めていくことで、小分けに小分けに別れに向けての

準備が心の中で出来ていったように思います。

 

最後になります。

 

悲しみの中にあって日常を送れる僅かな薄情さを自分に見出したのは事実です。

でも、薄情ながらも消し難い悲しみを感じていたのもまた、事実です。

矛盾していますが、確かにそうだったんです。

 

それをどうしても書いて、整理したかった。これはそういう文章です。

 

そして

 

薄情ながら、末筆にて

故人の冥福を祈ります。

 

合掌

 

*何回も確認したのに、まさか薄情と白状でご変換していた誤字を修正しました。