五つ年上の姉がいる。美人だし、頭がいい。うちはパパがいるからこんな家族になった、とは思うのだけど、でも、姉がいたら末原家が末原家になったとも言える。拓馬の性格に大きな影響を与えたのが姉であることは間違いない。


姉は高校の時に茶道部だった。文化祭の時に、お茶菓子と姉目当てで遊びに行ったことがある。茶室には時計がなかった。時を忘れるため、だそうだ。いいなー、とおもった。


いま、自分の部屋にもアトリエにも時計がない。いいのかな。

3月3日

朝の11時から、照明のまさゆきの会社事務所に行くことになってた。着いたのが12時30分。寝坊をしたわけでもない。何故遅れてしまうのかがわからない。なぜかどういうわけだか出発し損ね、そしてそこから電車の乗り換えを間違え続ける。何度も行ったことある場所なのに。なんでだろう。なんでだろうなあ。

まさゆきの配信番組に出演し、そのあと塩崎合流し、来月に上演される『グレートフル・グレープフルーツ』の打ち合わせ。


脚本末原拓馬✖️演出塩崎こうせい


最初にやったときは、さひがしジュンペイプロデューサーからの依頼で執筆し、演出もやった。素晴らしいキャストとともに闘い、いまでも伝説的に語られる作品に。


さひがしさんが「たくま、おぼんろ以外も書いた方がいい」と言ってくれたこと、感謝してる。なんだかんだ、もう10年以上の付き合い。出会えたこと、ありがとう。同時並走型だけど、ことあるごとに人生を動かしてきてくれた。まだ何も恩返しができていない。なんとかしたい。


今回のプロデューサーである阿部氏との出会いもこの作品。彼は当時作品に魅了され、そこからずっと再演を観たい気持ちをもってくれていたとのことで今回、「グレグレやらせてください」と連絡をくれた。資材を投げ打っての覚悟。しなやかだ。


素晴らしい思い出と共にある作品だから、パダジュグとかと同じで、タイムカプセルの中に閉じ込めておきたい気持ちはたくさんあった。初演のときの仲間と共にまた再演したいな、とも話し続けてきたし、いまもそう思ってる。


だから、今回、自分の手を離れて物語が上演されることへの複雑な気持ちはなかったわけじゃないし、かつての仲間たちにも、あるんじゃないかとは思ってる。


でも、任せる。物語が生きていくためには、そうした方がいい。閉じ込められた戯曲は成長を止められた可哀想な子供、いつの間にか生命力を失って、ゆるやかに死んでしまう。


ここ最近は、自分はあと1年でこの世界からいなくなる可能性もあると思って生きることにしてる。細かいことにこだわってる場合じゃない。持っている名作はみんなに分け与えていく。どうも、それ以外に自分がこの世にいる意味はないみたいなのである。

キャストも発表になった。オーディションとのことだったけど。尋常ではない数の応募だったそうで、ありがたいこと。で、蓋を開けたら主演が福圓美里と聞いてずっこけた。我ら三人とも顔見知りなのに、普通に正面から応募してきてオーディション受けたらしい。どんなにキャリアがあっても勇気を持って飛び込むのはすごい。


土田卓という俳優は初演にも出てて、今回もでる。彼も、長い作文と共に正面から応募してきた。その作文、読んだ。作品愛が綴られていた。うれしかった。欲しいものは手を伸ばして取る。自分が何を欲しいかをはっきりさせる作業はそれはそれで大変でもあるし、なかなかできるわけでもない。他のキャストも魅力的な気がした。自分は作家にすぎないので、そこまで稽古などに首は突っ込めないのだけど、とても楽しみです。


よかったら同業者の方、見てみてください。本当に良い本なので、自分もやりたいと思ってくれるかも知れません。もしそうなったら、ご相談ください。映画にもなって欲しい作品。

改めて、時間について。


あと15分で家を出なきゃ、というときに、何かのきっかけで絵を描き始めたり、楽器を触り始めたり、思いついた物語を書き留めたり、考え事を始めたりしてしまう。気付いたら1時間経ってたりする。始めたら、ある程度ちゃんと形にしないと気が済まない。


治したい。ここからは『おしり筋肉痛』の稽古期間。外部。遅刻はシビアだ。この業界では遅刻は絶対に御法度だと言われているし、実際、人にかかる迷惑は計り知れない。


実は大人の麦茶でもすでに失点1で、顔合わせの日に遅刻した。最寄りから稽古場までの行き方をまったく調べないで行ってしまったのだ。徒歩20分かかる場所だったから、撃沈した。全力で走ったけど、途中リュックが開いてそのまま走り、道端に荷物をばらまくという事態。小学生たちに拾うのを手伝ってもらい金髪を褒められまたダッシュ、みたいなそのときに、猛烈な自己嫌悪に陥る。治れ。


執筆をスケジュール通りに終わらせる能力もない。いまも、なんなら2021年の間に終わらせておきたかったものと戦い続けてる。何度も徹夜をし、心身を投げ打ち、たくさんの親しい人に頭を下げてプライベートを蔑ろにしながらやってるのに、まだ出口に辿りつかない。


台本が遅い作家に対して現場のみんなからの風当たりはキツい。以前スタッフに「この台本を稽古初日に持ってきてたら誰もがお前を天才と賞賛し続けたよ」と言われた。その現場では実際にはそれなり酷く遅れてしまい稽古期間の半ばで完本したのだけど、ことあるごとに「戦犯」と呼ばれ、打ち上げでは土下座させられ、お前は酒を飲む資格はないと叱られ、朝までごめんなさいを言い続ける始末だった。


反省は、した。本心からの反省だ。


でも、一度としてサボったわけでもないし、執筆期間中にどこかに遊びに行ったりしたわけでも決してない。ただ、「もっとよくなりそう」な気持ちに襲われて、粘り続けてしまうのだ。途中から、「本当に完成するのだろうか」という不安が頭をもたげ始め、半泣きというか、ちゃんと泣きながら書くことになる。


そういえば、稽古中に仲間から温かい言葉をかけられることはあんまりない。無理もない。1ヶ月も予定を空けて稽古に参加したのに、待つばかりでなかなか芝居ができず、そしてある日突然台本がやってきて、残り少ない稽古で台本を覚えて芝居にしないといけない俳優たち。彼らはもはや被害者で、そして明確に加害者は作家。別に非難しないにせよ、俳優は自分のことで必死になるしかない。


締切を守らない人間はプロではない。自分はいったいいつになったらプロになれるのだろうか。落ち込み続けるのに、やはり何かを描き続けてしまう。マゾではないし、お金が欲しいわけでもない。描いてしまう。


3月4日

10時から劇場見学。北千住。5月に脚本演出、出演をする舞台。今月中に描きあげるつもりだけれど、前の締切が押していて、いま、すこし目が回りかけてる。


プロデューサーの岩佐ゆうき、と、今回演出助手が、パダジュグでたくまの代役やってくれてたタツキ。よく会う。この前も新宿の路上で偶然出会った。なんなんだ、タツキ。




大統領とか外総のよくわかんない話は聞き飽きた。理由なんか聞いても何の役にも立たないというか、「理由があれば殴っていい」とか「だってこんな気持ちなんだから仕方ないじゃん」という人の意見は、聞いても結局仕方ない。


死んだ人の話をしろよ。100人死んだんなら、その100人こと、ぜんぶプロジェクトX並に調べ上げて全世界に特別番組放送し続けてくれ。殺してしまったひとのことも、詳しく教えてくれ。


殺させたひとたちの話なんか聞いても、もう仕方ない。そんな奴ら、全然この世界の主役じゃない。すっこんでろ。お前らが何しようと俺らは幸せに愛し合ってやるから覚悟しろ。


。。。、、

わがままだ、とか、思いやりがない、と言われることがある。困る。そうならないように必死で生きていて、自分の私利私欲のために何かをしたことは一度もなくて、可能な限り、すべてのひとに良いようにしていたい。でも、Aさんのために何かをすると、Bさんは傷つく、みたいなことも、たまにある。難しい。誰か自分をガチャポンの丸いケースに入れて砂漠の真ん中の砂の中にでも埋めてくれ忘れて欲しい、と思うこともたまにある。気になって出てきちゃうだろうけど。

。。。


いろんな執筆ものすごく忙しいしがんばりどきなくせに俳優の仕事もやろうとするから周りに心配をかけてる気がする。でも、やっぱり、肉体で物語を紡ぎ続けていないと、物が描けなくなる。歌を好きで音楽を始めた人間が、お前の作曲はいいから歌わずに部屋にこもって曲をかけ、と言われて、頭の中に音が浮かばなくなる感じと言えばわかるかしら。細胞が動く日々の中でないと、物語を紡げない。心が動かない。


こんなんじゃダメで、孤独と闘い、朝から晩まで一年中閉じこもって描き続けられるようでないといけないのだけど、じょうずにできない。じょうずにできたい。でも、ほんとはまだ俳優を引退しないで、いろんな物語の中で生きたいし、人と出会いたい。そんな気持ちが、なんか「出たがり」みたいに思われるのが、たまに、恥ずかしい。俳優の才能はないんだから、作家をやったらいいんだよあいつは、と、思われてるんじゃないかと怯えつつ、でも、日常世界でうまく生きられない自分は物語の中で生命力と人生を手に入れてる感じもあるのです。もう暫し、お許しください、と、誰に向かってかはわからないけど謝りながら、がんばる日々。


。。


さあ、今日も頑張りましょう。

ここから缶詰になり執筆に明け暮れて、夜はMonogatalinaの配信です。


あなたが幸せでありますように。