ま、いいかんじにいきてこう

すてきなそうぞうりょくに、こころをゆるして。



執筆のために、コンビニでカップのコーヒーを買った。自分でボタン押して淹れるタイプだったのだけど、間違ってカフェオレを押してしまった。定員の、白髪のおじちゃんに事情を説明した。淹れてしまったカフェオレは廃棄にするから、こっちを使って!と新しいカップをくれたけど、もったいないから、カフェオレ飲む!あと、追加で改めてコーヒー買うから、お金払わせて!と頼んだ。そしたら、いらない!そして、2杯とも飲んで!と、カップはくれたし、間違って生まれてきてしまったカフェオレも引き取らせてくれた。ラッキー!て話じゃない。おじちゃんの優しさ大好き!!てハッピーの話。「手持ちで平気?あつくない?」とも言ってくれた。みんな、ファミリーマートは良いお店です。




何かを肯定するために何かを否定しないではいられない人は、とどのつまり自信がないのかもしれないなって思う。

 


相対評価であろうと絶対評価であろうと、いいものはいい。そして、自分としてよくは思えなかったものもがあっても、きっと、それを愛している人はこの世界にいる。同時に存在していてもいいじゃないか。


なんというか、気に入らないものは消し去ったりしないと自分の好きなものが脅かされる気がするという風に考えるのは、弱い。

 

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世界の動かし方には「離す」と「繋ぐ」の2パターンの手段がある。

 

戦争とか、何かを否定することとか、切り捨てることを善としてやっていく方法が「離す」。歴史上、「男性的」「父親的」と言われてきたやり口だ。

 

「繋ぐ」は逆。あらゆるもののすべてを肯定し、仲間になっていく方法。

 

これまでは「離す」ができることが強さとされてきた。でも、その結果がこの世界だ。自分だけ、自分の身内だけを守ることが強さであり、そのために戦うことが良いと人類は割とけっこうちゃんと思い込んできた。資本主義のことをみんながお気に入りなのも多分、そう、勝ちたい、っていう考え方。

 

パダラマ・ジュグラマでも問題定義してるけど、僕らは、何かを奪ってしか生きていくことはできないんだろうか。他者の屍の上にしか立つことができないんだろうか。

 

100人のことを想像して考え続けるより、3人について考え続ける方が人生は楽ちんだ。もっというと、自分の機嫌をとることだけに全力投球する方が、なんか、楽しそうに思う。最近の「大金持ちになりましょう本」には、他人のことは無視できたら偉いですってことばかり書いてあって、人生のノイズのほとんどなんて他人のことなんだから、すごく魅力的なように感じてしまう人が多いのもわかる。

 

でも、たまに、疑って欲しい。家族を愛することで、家族を守ることで、恋人を、親友を守り喜ばせることで、あなたの人生は充足したはず。

 

守られたがってる、あなたを必要としている人間が、もっとたくさんいる可能性がある。

 

「離す」の考えの根幹にあるのは、限りあるものを奪いあわないといけないという考え方だ。りんごがひとつあって、それを10人で食べるんじゃお腹がすいちゃう。だから、勝ち取れ!みたいな。

 

でもこれからは、「10人が食べられるようにたくさんのりんごを育てるにはどうしたらいいんだ。わかんないけどどうにかできるはずだから、そうなるまではどうにか力を合わせて頑張って、未来を楽しみにしよう」という、未来に対する根拠のない期待と信頼をする力があればいいんじゃないか。

 

実際、人類はそういう、「繋ぐ」ために自分の才能を費やしまくった何人かの天才たちによって進化してきた。その都度、「離す」を肯定する者たちに変態扱いされながら、「他人ことなんか考えるなよ、お前のため、俺たちのためだけに生きろよ」「私のことを一番に考えないなんて愛がないのね!」とかとか言われながら。

 

切り捨てた者たちの痛みや悲しい未来を想像してしまうのは、確かに思考のノイズになる。けど、想像してしまえる以上、その人たち泣いててもいいや、って考えられない。そういう弱さを持っている強い人でい続けたい、自分は。


ウクライナとロシアが戦争どうするか会議した、ていう写真が、あまりに普通に会議で驚きすぎた。どんな感じなんだろう。冷静に話し合って欲しいと思う反面、戦争のことなんだから冷静に話し合わないで欲しい気もする、ひとの命かかってるんだから。このひとたちが何かしらの勝負するってことで手を打てないんだろうか。悩ましい。


写真、ほぼこれだよね。パダジュグの本読み。




これ、手持ちが1000円も無くなってたことに気づいて仕事場の近くでATM行って、帰ってきたのだけど、どうにもお金を取った記憶がない、あっとおもってポケットさぐったけどお金がない。で、そうか!!と、判明した。


たかしくんから連絡きた。昨年出演した蝶の筆のときの、たかしくん。大丈夫か!?って。半年ぶりの連絡だったしうれしかった。二万円で手に入れたたかしくんからの連絡だ!ともおもった。


たくさんのひとがリプライくれた。ありがとう。ATMはきっと、大焦りで取り忘れてますよー!って警報音をならしてただろうってみんな言ってて、ごめんー、て思った。あと、取り忘れてたら自動的にお金は回収するようになってるはずだ、と教えてくれたひとたちいた。


翌日通帳調べたら、ちゃんと二万円は、おろされないで戻っていました!よかった!!!!ご心配をおかけしたみたさん、ごめんなさい!ありがとう!!


忙しさで思わず頭がボーってしてる。転んだり、物忘れしたり、なんか、いろいろ、機能が落ちてる。いま取り組んでる締切ものが、あとちちょっとで終わる。生き延びたい。

 







 


僕ら、何をもってプロなんだ?と考えるべき。僕なんか、絵、音楽、芝居、企画、文章、ルックス、そのあたりで仕事をしているけど、ある意味、「誰にでもできること」だし、「けっこうみんなやりたいこと」だ。それで食べれたら嬉しいな!と、思ったことあるひと多いはず。


SNSに投稿されるファンアートをみていて、なぜ名もなき一般人がこんなに絵が上手いの!?と驚く。美大生の友達も何人かいるけど、奴らにいたっては一般の人からみたら「プロじゃん!」てくらい絵が上手い。でも、プロになるひとは、ほとんどいない。


カラオケに行くと、みんなこんなに歌えるの!?と驚く。高校の軽音楽のライブを観に行っても、ふつうに、聴けるくらいの音楽にはなってるし、それこそ、父が教えていた音楽学校の生徒であるセミプロさんたちは、ヤバい、うまい。でも、プロになる人は、何百人の中でひと握り。


声優もそうだし、俳優もそう。


スタッフワークも、いろんな種類あるけど、実はけっこう割と誰でもやれるようなこと多い。実際、一年も学べば覚えられるような仕事が多いし、なんなら僕ら、友達や家族に頼んじゃったりもする。そんな中で、なぜ、プロが存在するのか。


考えないといけない。


お金は、あるところにはあって、流れているところには流れてる。だからなんか、思わずお金を稼げてしまったりもする。でもそれは、誰かの愛とか、縁とかでなんとかなってしまったりしてるだけだったりする。僕も、手伝いにきてくれた友達にはお金を渡すことも多い。


カラオケ歌をうたってと言われた歌のうまいひとがお金をもらうことは基本的にないのとおんなじで、ちょっとやそっとで金銭は発生しない。


最近、「アーティスト、プロにタダで仕事を頼むな」という流れがある。もちろん、大切なこと。やりがい搾取、ダメ。でも、じゃあ、どこからが、プロ?


専門学生は?

卒業1年目は?

どこでも習ってないけど、天才的な感性を持った人は?


お金を稼ぐのは、仕事をもらうのは、大変、よほどの覚悟で一流を目指さないといけないよ、と、あぁ、僕の大切な人たちよ、どうか、そう伝えたい。


「お金をくれたら時間も体力も費やして一流の仕事をしてみせます」と言い続けて消えて行った人たちをたくさん観てきた。時間も体力も費やして一流の仕事をしてくれた人にしか、人はお金を払わないのです。


でも、一流のひとには、土下座して仕事を頼むのです。いくらならやってくれますか!?と。


がんばれみんな。がんばろう。いろんなみんなと、一緒に走り続けたい拓馬です。

 




3月9日だからサンキューの日なんてベタだよねって思うかもだけど感謝なんてしてもしてもしたりないくらいだぜと思い込んで心の底から何もかもに何度も何度もありがとうあるもののありがたさをわすれないでいられるじぶんでありますようにありがとう


。。。


『瓶詰めの海は寝室でリュズタンの夢をうたった』にみんなが出逢い直すまであと5ヶ月なんだけど、すでにたくさんの作戦を立てていて、たくさん驚かせられるだろうってワクワクしてる。物語も、演出も、公演全体も、すごいことになるよ。僕ら毎日、準備と妄想してる。今年もいい夢みようね、約束だよ。


。。。。。


さあ、きょうもがんばろう。


あまりに長い、しちめんどくさい文章になっちゃったから消そうかとも思ったけど、消された文字たちかわいそうだよなと思って、そのまま世界に放つね。


気付いたらすっかり春めいてるや。


どうかあなたが、どうにかこうにか、幸せでありますように。心の底から願ってます。


なにとぞなにとぞどうか


幸せでありますように。