「ノルウェイの森」上、より❶ | オカハセのブログ

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「ノルウェーの森」村上春樹

飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れはじめた。それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの『ノルウェーの森』だった。そしてそのメロディーはいつものように僕を混乱させた。いや、いつもとは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。   ~中略~     人々がシートベルトを外し、物入れの中からバッグやら上着やらをとりだし始めるまで、僕はずっとあの草原の中にいた。     ~中略~
十八年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも、僕はあの草原の風景をはっきりと思いだすことができる。      ~中略~     しかしその風景の中には人の姿は見えない。誰もいない。直子もいないし、僕もいない。     ~中略~     そんな風に僕の頭の中に直子の顔が浮かんでくるまでには少し時間がかかる。そして年月がたつにつれてそれに要する時間はだんだん長くなってくる。哀しいことではあるけれど、それは真実なのだ。     ~中略~     そして風景だけが、その十月の草原の風景だけが、まるで映画の中の象徴的なシーンみたいにくりかえしくりかえし僕の頭の中に浮かんでくる。そしてその風景は僕の頭のある部分を執拗に蹴りつづけている。

…………………

直子は言った。「私たちみんなどこかでねじまがって、よじれて、うまく泳げなくて、どんどん沈んでいく人間なのよ。私もキズキ君もレイコさんも。みんなそうよ。どうしてもっとまともな人を好きにならないの?」
「それは僕にはそう思えないからだよ」僕は少し考えてからそう答えた。「君やキズキやレイコさんがねじまがってるとはどうしても思えないんだ。ねじまがっていると僕が感じる連中はみんな元気に外を歩きまわってるよ」
「でも私たちはねじまがってるのよ。私にはわかるの」と直子は言った。

…………………

「どうしてそんなに固く物事を考えるんだよ?ねえ、もっと肩の力を抜きなよ。肩に力が入ってるから、そんな風に構えて物事を見ちゃうんだ。肩の力を抜けばもっと体が軽くなるよ」
「どうしてそんなこと言うの?」と直子はおそろしく乾いた声で言った。
彼女の声を聞いて、僕は自分が何か間違ったことを口にしたらしいなと思った。
「どうしてよ?」と直子はじっと足もとの地面を見つめながら言った。「肩の力を抜けば体が軽くなることくらい私にもわかっているわよ。そんなこと言ってもらったって何の役にも立たないのよ。ねえ、いい?もし私が今肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃうのよ。私は昔からこういう風にしてしか生きてこなかったし、今でもそういう風にしてしか生きていけないのよ。一度力を抜いたらもうもとには戻れないのよ。私はバラバラになってーーどこかに吹きとばされてしまうのよ。どうしてそれがわからないの?それがわからないで、どうして私の面倒をみるなんて言うことができるの?」
僕は黙っていた。
「私はあなたが考えているよりずっと深く混乱しているのよ。暗くて、冷たくて、混乱していて……ねえ、どうしてあなたあのとき私と寝たりしたのよ?どうして私を放っておいてくれなかったのよ?」     ~中略~
     「ごめんなさい」と直子は言って僕の腕を優しく握った。そして何度か首を振った。「あなたを傷つけるつもりはなかったの。私の言ったこと気にしないでね。本当にごめんなさい。私はただ自分に腹を立てていただけなの」

…………………

「直子はよくあんな風になるんですか?」と僕は訊いてみた。
「そうね、ときどきね」とレイコさんは今度は左手を見ながら言った。「ときどきあんな具合になるわね。気が高ぶって、泣いて。でもいいのよ、それはそれで。感情を外に出しているわけだからね。怖いのはそれが出せなくなったときよ。そうするとね、感情が体の中にたまってだんだん固くなっていくの。いろんな感情が固まって、体の中で死んでいくの。そうなるともう大変ね」
「僕はさっき何か間違ったこと言ったりしませんでしたか?」「何も。大丈夫よ、何も間違ってないから心配しなくていいわよ。なんでも正直に言いなさい。それがいちばん良いことなのよ。もしそれがお互いをいくらか傷つけることになったとしても、あるいはさっきみたいに誰かの感情をたかぶらせることになったとしても長い目で見ればそれがいちばん良いやり方なの。あなたが真剣に直子を回復させたいと望んでいるなら、そうしなさい。最初にも言ったように、あの子を助けたいと思うんじゃなくて、あの子を回復させることによって自分も回復したいと望むのよ。それがここのやり方だから。だからつまり、あなたもいろんなことを正直にしゃべるようにしなくちゃいけないわけ、ここでは。だって外の世界ではみんなが何もかも正直にしゃべってるわけではないでしょう?」

…………………

もちろん直子は知っていたのだ。僕の中で彼女に関する記憶がいつか薄らいでいくであろうことを。だからこそ彼女は僕に向かって訴えかけねばならなかったのだ。「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」と。
そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。






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