バラードフォームーンチャイルド《 自分史[41]》 | オカハセのブログ

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或る日の夜、青森の家でギターをつま弾いていると、ふと曲のモティーフが浮かんで来た。なんとなく「一曲出来そうだ」とピンと来るものを感じていたら電話が鳴った。
出ると隼人さんの先輩のベース弾きの人だった。
そのベース弾きは電話口で「あいちゃん(仮名。隼人さんの奥さんのこと)がいまさっき亡くなったぞ」と静かに行った。
このベース弾きにも色々と世話になっていました。まだ旅をしていた頃「千曳駅」に滞在してサックスを練習していた時に、僕に注意と撤退を呼びかけようか躊躇していた汽車の乗務員に「あいつは変わってるけど悪い事するやつじゃないから黙認してやってくれ」と言ってくれたり…


葬式には嫁さんとふたりで行った。
最初は涙は全く出なかった。
「ああ、こういう時って涙が出ないものなんだろうな」と思った。僕も隼人さんの奥さんは大好きだったし、気が強い人だけど僕には優しかったから奥さんに好かれていると勝手に思っていたし…

ところが式が終わって廊下に出た瞬間に、自分の意思とは思えないくらい大粒の涙がポロポロと出てきた。最初の涙が流れた瞬間に悲しい気持ちを我慢している事に気づいた、嗚咽を漏らすくらいに…
恥ずかしかったがもう止めることは出来なかった。
そしたら普段はポーカーフェイスでクールな隼人さんの後輩のロックギタリストが、何も言わずに僕の肩を抱き手を強く握り締めた。
涙はすぐに止まった。急に悲しみが押し寄せて急にそれが収まった感じがまるで通過儀礼のようだった。
僕の潜在意識だけが勝手に泣いてる感じだった。だけど涙が止まった瞬間に【あの世へ旅立つ彼女を祝福】するようなそんな、なんとも言えない満たされた様な癒やされた様な気持ちになった。
あの時彼女は僕のすぐ近くにいたのかもしれない。

そのあと隼人さんのお母さんが「精進落とし(会食)にこのあとふたりとも来てね。お酒とお食事をしていってね」と優しく僕ら夫婦を招待してくれました。
僕らが付いた席は隼人さんの友人=ミュージシャンばかりなので変に緊張はせずに食事ができた。
製材所のウマが合わない職人が遠くの席に座っていたので目を合わせない様にしていましたが。
隼人さんとのそもそもの出会いやそれから起きた事や奥さんの思い出などを僕もみんなもしみじみと、しかし重くなく明るくミュージシャン達は話していました。本当にミュージシャン達に愛された人だったんだなとしみじみ思いました。

会食が終わると今度はミュージシャン達だけで奥さんを偲ぶ事になり「ウッドコーポレーション(仮名)」にみんな移動しました。
そしてあまり遅くならないうちに電車で青森市内に帰ってきました。


彼女はまさに月の子供(ムーンチャイルド)と呼べるくらいに闇の中にいる人に光を与えるような人でした。
純粋で一途で曲がったことが嫌いで、そして皆に対しても愛情を持って接する素晴らしい人でした。
「あいさん」
あなたが決して僕を孤独にしないように労ってくれていた事に、鈍感な僕はあなたが亡くなってからやっと気付きました。
僕や隼人さんが鈍感なことはあいさんの中では想定内だったんですよね。
見返りを全く求めない女神のような人でした。
本当に感謝しています。

もう20年以上も前の出来事です。

しかし月日が経てば経つほどあいさんの優しさは本当に素晴らしいものだったのだと思わずにはいられません。

「あいさん」ありがとうございました。




隼人さんの奥さんの訃報の電話が来る直前に浮かんだモティーフは後日ひとつの曲として完成しました。

隼人さんの作った「ブルースフォームーンチャイルド」に対して、僕は「バラードフォームーンチャイルド」と名付けました。