日本人にユダヤのDNAを運んだチャン族
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27.チャン族(キョウ族)羌族
羌族(きょうぞく・チャンぞく)は、古代より中国北西部の青海で遊牧生活を営んでいた。
主要な使用言語は中国語と羌語。
周の文王に協力して殷打倒に大功を上げた姜族(太公望や始皇帝の実父とされる呂不韋)だ。
魏晋南北朝時代に入ると陝西に移動し、自らの国を建てた。
すなわち、西羌、前秦(吸収)、後秦を名乗った。
後秦は417年に東晋の劉裕(後の宋武帝)に滅ぼされる。その後、唐、宋、西夏との関係で
栄枯盛衰を重ねるが、西夏滅亡後は纏まった政治活動を見せず、現在に至っている。
最近の人間のDNA研究の結果、チベット系→チャン族→秦氏→日本の順に、
古代の曽我氏を通じて
ユダヤの遺伝子が、皇室から庶民にまで伝わったのは確実らしい。
中国語名 :羌族(チャンぞく・きょうぞく)
英 語 名 :Qiang
人 口 : 306,072 人(2000年)→ ?人(2010年)
代表的姓 :羌、姜。太公望の関係者一族(望・彪・班・呉・詠・継)。姚。唐。
居 住 地 :四川省西部の山岳地帯アバ・チベット族チャン族自治州の茂県,ぶん川県など
羊を大きく太らせた象形文字が「美しい」と言う字になるのは周知の通り。
ところで、羊に人間の足を付けた象形文字は「羊を追う人々」と言う意味になり、
「羌」と表記される。 キョウ。(コウ)。えびす。ああ。中国西部に居た遊牧民族。等と
中国や日本で読まれ、上記の意味を持つ。
中国では古代遊牧民「羌(キョウ)」の末裔といわれるが、「羌族」を「チャン族」と読む理由が
僕には解らないのよ。(中国語に詳しい方のご教示を切望します)
チャン族3
[羌族の別の顔]
王が死ぬとそれを弔い、祀るため、また次の王の威光を知らしめるため、『人狩り』が
行なわれた。まさしく野の獣を狩るように、人間を「狩って」いた。
そしてその標的にされていたのが、遊牧民族で争いを好まない大人しい羌族だった。
----------------------------------(宮城谷昌光氏の文献を参考にした。多謝)
・住居(羌族の伝統建築)
北部の山腹地域では伝統的なの石の建物が依然として残されており、
今もなお建築され続けている。
1933年、マグ二チュード7.5の地震、ほぼ全滅。
1970年代に石の積み重ねの三階建て建築は―階建て或いは三階建てのレンガ建築に
切り替えられ、茂県、汶川県では様々な色のタイルを壁に貼る建物がよく見られる。
チャン族6
---------レンガ、タイルの住宅
これでも先年、大地震で汶川県が壊滅された記憶は新しい。
・羌族の産業
海抜780m~4,000mの範囲内にあり、ヤク・馬・羊・牛の放牧、豚飼育、漢方薬とキノコ採集、
裸麦・ソバの栽培、リンゴ・梨・桃などの栽培、漆・蝋の採取などが行われている。
・宗教
チベット佛教の影響が強いためラマ教を信仰している人が多い。
・観光
四川省のチベット自治区なので隣同士かと思ったら、黄龍風景区は中国のど真ん中なのに、
九寨溝は東側、北朝鮮から真上の四川省北部に位置。同じような色の湖水地帯である。
ここにもジャイアントパンダが生息している。
中国人が発見したのは1970年代のことらしいので、チベット人以外は知らない「秘境」だった。
ここから余談[有名人]
紀元前11世紀頃、殷周易姓革命の時、周の文王、武王を援けて殷を討った軍師
「太公望」の話です。
物語は、6人の子供が戦火から逃れている場面から始まる。商(殷)の王受王(紂王)による
人狩りにより一族を全滅させられ、辛くも逃げ延びた子供たちの一行。
それが、望・彪・班・呉・詠・継(女の子らしい)、遊牧民族羌族呂氏の子供達で、
後に商を倒し、周の建国をたすけ、斉という国をつくることになるのです。
この逃亡シーン、望はまだ12歳の子供です。呂族の長の息子とはいえ、軍隊に襲われるまで、
羊の見張りをしていたごくごく普通の遊牧民族の少年だったのです。
その望が他の五人の子供達を連れ、今にも倒れそうなほど走りに走り続けている子供達を
励まし、背負い、手を引き逃げる有様。
この歳から人を惹きつけ、この人と一緒なら大丈夫、もしも死ぬことがあっても悔いはない、
と思わせるなんて、望はまず尋常な人物ではなかった様です。
・姓氏について一言
現代の日本人は姓も氏も一緒に使っているが、これらは別々の起源がある
別々の次元の存在だった。
春秋時代は姓>氏、
漢代は姓=氏です。
春秋の斉では、
「姓」は殷には存在しないとされている。定説では、殷王が漢字を作らせた。
「姓」は西周が組織した擬似血縁組織だったからです。
だから、西周金文では「姓」を「生」と書くそうです。僕も知らなかった。
先にあげた「姜」姓は中国最古の姓の一つだそうです。太公望の一族。以上