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妊娠から死産までのざっとした経緯はこちら
ラミナリアの痛みを最大限排除した方法はこちら
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今日は二回目の命日です。
子供を亡くすということは、違う人生を歩み始めるという、人生のとても大きな分岐点になってしまったんだと感じます。
死産をしなければ、出会っていなかった人たち。
短期間での夫婦の絆の強まり。
生活。
そして家族。
ぱんぽこは、この2年で2人のお姉ちゃんになりました。
もしもぱんぽこが無事に生まれていたら、今ある出会い、生活はなかったはずです。
今ある生活はこの2年でかけがえのないものになりました。
それは時間が経てば経つほど思うようになりました。
そうすると、もしもぱんぽこが生きていたらどうなっていたのかを、どうしても考えてしまいます。
ぱんぽこは無事に生まれるはずの子だった、と今でも思っています。
ぱんぽこ自身は健康そのものでした。
死後、保険内外問わず出来る検査は全てしました。
妊娠中の私に多少の問題はあったものの、どれも子宮内胎児死亡に繋がるものはありませんでした。
死産後にも様々な検査をし、結果、私は不育症で引っかかりましたが、それが子宮内胎児死亡に繋がったわけではありませんでした。
消去法で、死因は「臍帯過捻転(さいたいかねんてん)」という臍の緒の強度の捻じれになっています。
臍帯過捻転は、お腹の中の事故のようなものだそうです。
それ自体はよくあることで、死亡まで至ることが珍しいそうです。
だからお腹の中の事故さえなければ、他には死に至るほどの問題はなかったので、無事に生まれるはずだった。
「もしも無事に生まれていたら」
死産をきっかけに出会った人たちには出会わなかった。
夫がこんなにも頼りにる人だと短時間で知ることが出来、またこんなにも感謝の気持ちを持っただろうか?
死産をきっかけに出来上がった人生観の変化というのは、死産がなければなかっただろうと思う。
また、私たちの元にやって来てくれた2つの新しい命は、ぱんぽこの死がなければ、出会うことはなかったかもしれない。
ではどっちの人生が良かったのか?
何の問題もなく、予定通りぱんぽこが無事に生まれてくれる人生。
でもそうすると、今の出会いや生活、そしてぱんぽこの下の子たちはお腹にこなかった(私は当時、ぱんぽこを生んだら当分下の子はいらない、一人っ子でもいいかもしれないと思っていた)。
それともぱんぽこのいない今の人生。
どっちの人生がいいのかなんていう「もしも」の話しなんか無駄だし、精神的に良くないと思いつつ、それを考えては複雑な気持ちになります。
ただ一ついえるのは、ぱんぽこの死が家族にとって大きな分岐点になったのは、間違いないということです。
時間が経てば経つほど、違う道へ進んだ実感を持つんだろうか。
それとも2年経った今がピークなんだろうか。
今日もお空の上が穏やかで楽しいところでありますように。
ぱんぽこが、お友だちと仲良く遊んでいますように。
今夜もたくさんのお祈りをしてあげるね。
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このブログは、可愛いぱんぽこの思い出と、自分の心の整理と、情報が少ない死産後のことが少しでもお役に立てばと思って更新しています。
私はまだ精神状態が不安定で、人に気が使える状態ではありません。
このブログは、死産・流産・不妊などで悩んでいる方が多く読んでくださっているかと思います。
不快な表現があったら大変申し訳ありません。
読んでくださっている全ての皆様に、穏やかな明日がくることを願っています。