日本人にとって、キリスト教は「外国の宗教」であり、親近感がないものであると同時に、「教えは良いけど、自分が信仰するには窮屈で退屈」と思われがちなようです。

 

「行儀よくないといけない」とか、「まじめでないといけない」と考え、「敷居が高い」と感じる方も少なくないようです。

 

私自身も、高校生の頃に「自分は牧師の家庭で育ったからクリスチャンなのであって、そうでもなかったら違う宗教だったかもしれない。」

「キリスト教は数ある宗教の一つであって、本当にキリスト教でよいのか?」

「なんか、神様なしの人生のほうが自由で人間らしいかも?」と考えた時期がありました。

 

完全に「放蕩息子タイプ」です。

 

とりあえず、「神様はいない!」と考えて生活してみることに…。

 

すると、本当にすべてのことが虚しく、意味を見いだせず、いろいろ自由に楽しんでいるつもりなのに、逆に楽しくない毎日を過ごしました。

 

神様や聖書の教えに縛られず、「自分の思うままに生活する」、それが自由だと思っていたのですが、かえって心は苦しく、何もやる気が起こらなくなりました。


外国の刑務所の話

 

外国の刑務所の刑に、こちら側からあちら側へ、あちら側からこちら側へ、ただ土を移動させるだけの無意味な刑があったそうです。

 

その労働には全く意味や価値が見いだせないのですが、受刑者はその無意味な刑をただ黙々とするしかありませんでした。

 

それを続けた人はどうなったかというと、気が狂ったりした挙句、死んでしまったそうです。

 

そういう刑はなくなったそうですが、「人間は無意味なことに耐えられない」ように出来ているようです。


私もしばらくの間、「神様なんかいない」と考えて生きてみることにしましたが、そうすると、私の存在も偶然の産物にすぎず、生きる意味や目的もなく、ただ面白そうなことに心を向けてみましたが、それがちっとも面白くないのです。

 

面白くないどころか、心が苦しいので、「生きていても死んでいるような状態」になりました。

 

バイブルキャンプで聖書の話を聞き、愚かで失敗ばかりの私のことも待っていて下さる神様の愛に触れ、すでに受洗はしていましたが、再び「神様のもとに帰ろう。今度は、神様の御用のために生涯をささげよう。」と決心しました。

 

再び「スイカde金魚ゼリー」。Kさんのブログで話題になってます^^

 


金魚鉢の金魚

 

金魚鉢の金魚の話を聞きました。

 

「僕はこんなところにいるのは嫌だ。もっと自由になりたい!」

 

そう思った金魚が金魚鉢から飛び出したら、どうなるでしょう。

 

…死にます。


私たちも、神様から離れて生きることが「自由」であるかのように思ってしまうことがあるかもしれませんが、神様から離れて生きることは、金魚鉢から飛び出した金魚、ぶどうの木から離れてしまった枝と同じです。

 

・・・

 

立派にはなれない。

 

まじめな性格、無理。

 

でも、そんな私でもそのままでいいからクリスチャンとして神を信じ、従って生きればよいのです。

 

間違ったと思ったら、その時点で立ち返ることができます。

 

私にとって、神の近くにいることが本当に自由で幸せなんだと気付いたのは、高校生の時でした。

 

 

 

神様から離れている人…。

 

帰っておいで―!

 

カムバーーーーック!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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