今まで私はずっと、物事には良い悪いや正しい正しくないや優劣があるという想いがぬぐいきれなかったけれど、ジャッジしているのは全てひとであって、本当は出来事やひとの言動に良い悪いも正しい正しくないも優劣も存在しないのだ。

 

誰かが言っていた、

 

この世のすべてはアトラクションだ

 

という言葉が一昨日急に実感として腑に落ちた。

 

苦しんでいる人は苦しむアトラクションに乗ることを自分で選択しているし、楽しんでいる人は楽しいアトラクションに乗ることを自分で選択している。選択している覚えはないと思うかもしれないけれど、基本的にひとはその選択を無意識にしているのだ。無意識であろうとなかろうと選択しているのは他の誰でもなくそのひと本人だ。苦しみたいから苦しんでいるのであり、楽しみたいから楽しんでいるのだ。

 

今まで私は苦しんでいる人を助けたいと思っていたし、家族や大切な人が常識の中で苦しむ選択をしているのを見るのがすごく悲しかった。今年の2月に出会った女性が「私はお父さんのことは諦めているの」と話しているのを聞いたとき、「諦めるなんてやだ!悲しいじゃん!」と思ったりもしていた。

 

しかし、正義感というのはある意味で幻想でしかないし、人を助けたいと思うことで「自分はその人よりも優位な立場、あるいは余裕のある状態にある」と思いたいに過ぎないのだと思う。感情や体験の種類として確かにポジティブ・ネガティブという性質はあると思うけれども、それが良い悪い・正しい正しくない・優劣とは本当は結びつかない。だから、「苦しむことは良くないことで、楽しむことが良いこと」というのは単なる思い込みでしかないと気づいた。

 

だから私は苦しんでいる人がかわいそうだとか、その人を助けたいとか、楽しむ選択をできている自分はすごいとかそういうことはもう思わなくなった。その人が選んでいる以上、私が彼らの選択を否定し選択を変えようとする権利も義務もないし、自分がどんな選択をしているかを他人と比較することは馬鹿げている。

 

そんなことをする暇があったら、自分がどんな選択をしたいのか常に自分に問いたいし、今まで苦しむことは結構やってきてもう飽きたので、基本的には楽しむ選択をしていくことに目を向けていたい。そして、自分以外の人の選択がどんな選択であったとしても、「諦める」のではなく、彼らの選択を常に「明らかに見て尊重」できるひとでありたいと思っている。