前回の投稿の後、友人から「まゆゆはもう『人からどう思われるか』っていうことから自分を解放できてるよね。」と言われたけれども、全然そんなことはない。

 

引越しの準備が早々に終わったこともあり、昨日もカフェでブログを書き始めたのだけれど、全く思うように文章を書けなかった。なぜだろうと内心ざわざわしていたのだけれど、とりあえず一通り書いてから家に帰った。するとなんだか体がおかしい。全身が震えて止まらない。体に力が入らない。お腹もキリキリ痛み出した。「え?え?え?」とよくわからないまま自分を掘ったら、小さな小さな私が出てきた。

 

「本当はものすごく怖いの。

 大好きなひとたちに嫌われちゃったかもしれないってものすごく怖いの。

 嫌だよぅ。嫌われたくないよぅ。」

 

小さな小さな私はこう言っていた。

 

今回書こうとしていた内容も、以前通っていた心理学のスクールについて若干の異議を唱える内容で、Facebookで友達になっているスクールの友人から嫌われるかもしれないという恐怖が重なったのだと思う。しかし、「嫌われるかもしれない」という不安から投稿しないという選択をした場合、それは自分のことも相手のことも十分に信頼できていないことになるのだと思う。だから、私は投稿しないという選択はしたくないと思い、自分を奮い立たせた。

 

 

~*~*~*~*~

 

 

今回は、この1年間において、人生最大の絶望の淵から華麗なるV字回復を遂げて理解したことについて話をしたいと思う。

 

 

~*~*~*~*~

 

 

「人生において大切なことは何か」という問いに対して、様々な人が様々なことを言っている。

 

自分のど真ん中を生きること。

自分を愛すること。

本音で生きること。

創造者ステージで生きること。

本来の自分に戻ること。

ワクワクで生きること。

子宮の声を聞くこと。

自分らしく生きること。

 

人はいろんな言葉を使うけれども、みんな言っていることは同じだと私は思っている。

 

どんなときも自分には自分の人生を創る力があるのだと理解し、本来の自分に嘘をつかず、自分の本心に従って生きること。

 

それは一見難しいように思われるけれども、そんなことはないのだ。今まで生きてきた環境によって「できない」と思っているにすぎない。

 

ひとは【魂(子宮の声、肚の感覚、ワクワク、本音)】と【心(感情、喜怒哀楽)】と【脳(思考、感性)】と【体(五感、体感)】の4つの要素から成っていると私は最近勝手に考えている。

 

しかし、現代の日本人は脳のうち左脳の役割である思考ばかりを使い、他の要素を活用できていないことが多い。すべての要素を活用できるようになることで、ひとは本来の自分で生きることができるのだと思っている。

 

魂の感覚に従い、脳で具現化するための処理をし、体で実践し、心で感じる。

 

これの繰り返しが本来の「生きる」ということなのだと思う。

 

そのためには、

 

①抑えてきた自分の感情を出すこと。

②必要のない信念や思考パターンを捨てること。

 

この2つが必要で、これらができれば、たぶんひとは変われる。

 

イメージはこんな感じだ。(主に『子宮委員長はるの子宮委員会』と『メンタルエステfeerique』の図を参考にしています。)

 

 

~*~*~*~*~

 

上記の①と②を実行するための方法について、人は三者三様いろんなことを言う。

 

小さなやりたいを積み重ねてみるとか、

何もやらずにただひたすらじっとしている時間をつくるとか、

記憶を探るとか、

瞑想してみるとか、

体の反応をみてみるとか、

ワクワクすることをしてみるとか、

子宮を温めるとか・・・

 

たぶん正解不正解は一切なく、人によってどの方法が合うかは違うのだと思っている。その人に合う方法はその人にしかわからない。自分で見つけるものなのだと思っている。

 

~*~*~*~*~

 

私は今年の2月、ある心理学のスクールに通い始めた。そのスクールは月に1回ワークショップがあり、計12回1年間通うというものだった。しかし、私は2回通っただけでそのスクールをやめた。私の中に「自分の力で方法を見つけたい」という欲求が生まれたからだ。

 

スクールをやめたいとスクールの事務局の人に話したとき、「契約の際に1年間通うルールについて申し上げたと思いますが…」と言われた。私はこれを聞いて非常に悲しくなった。確かにルールは覚えていた。ひとが変わるには1年間必要だというその根拠にも納得していた。だけれども、そのルールはあくまで統計によって導き出した1つの解でしかない。それに当てはまらない人はいくらでもいるはずだ。私は農学部出身で3年間植物と毎日毎日対話をし、個体差に悩まされる研究生活をしてきたので、統計に当てはまらない個体はいくらでもいることを知っている。すべてを同じ枠でくくれないことを知っている。枠に当てはまらない個体を枠に当てはめようとすることは、ある意味でその個体の個性を無視して潰しているようなものだと思う。

 

私は決してスクールのことを悪く言いたいわけではない。お世辞を抜きにして、スクールの内容は本当に素晴らしいもので多くの人にとって1年間通うことは非常に有意義なことだと思っているし、契約の内容に反したのは私だ。でも、2月の私が1年間通うと思っていたことも事実だし、4月の私がもう通わないで自力で生きていきたいと思ったのも事実だ。このまま通い続けることは4月の時点の私を無視すること、つまりその瞬間の自分を殺すことになると思った。

 

スクールの事務局の人には全身全霊で自分の想いを語ったけれども、最後まで理解してもらえなかった。私はとても寂しかったけれども、これにより1つ理解したことがある。自分たちの提示する方法が正しいのだと言いたい人の存在を否定していたのは私だということだ。

 

本来の自分で生きる方法について、自分たち独自のメソッドを提唱する人たちはたくさんいる。それはそれで何ら間違っていないのだ。ただ私が思うのは、「人が言っているからこれが正解だ」と思うのはたぶん何かが違っていて、その瞬間の自分がこれだと思うものをやってみることが何より重要だと思う。ただ考えているだけでは何も変わらない。やってみて自分で体感すること。それが本来の自分で生きるための一番の近道なのだと思う。