約3週間ぶりのブログ更新になります。この3週間、新しい人と出会ったり新たな展開を迎えたり、15日から22日まで学生時代の友人と中国に行ったりして刺激の多い日々を送っていました。

 

中国に旅行に行って感じたことあれこれをまとめます(←私の敬愛する坂爪圭吾さんふうに言ってみたw)。

 

 

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1.常識とは何か

 

中国に行って真っ先に感じたのは、日本の常識が全く通じないということだ。中国の人は順番を守るということをしない。電車の中でも普通に電話をする。お客様第一という視点がない。

 

そもそも常識というものは何なのか。その国や地域ではそれが当たり前とされていることでも、他の国や地域では理解されないことも多い。常識から外れるのは良くないとされることが多いけれども、常識というのはあくまで特定の国や地域のひとたちがつくり出したルールでしかなく、ある意味で幻想なのだと思う。私は幻想よりも自分の心に忠実に生きたいと思った。

 

 

2.美しいもの、かわいいものを前にして国境はない

 

私たちは上海と四川に行き、四川では九寨溝と黄龍、それからパンダ基地に行った。

 

九寨溝と黄龍では絵に描いたような美しい色彩の湖を見ることができ、パンダ基地では言うまでもなくかわいらしいパンダを見ることができた。九寨溝と黄龍は中国人観光客で溢れかえり、パンダ基地は「ここはどこの国だろうか」というほど様々な国籍の人で溢れていた。

 

 

 

 

 

 

美しい景色やかわいい生き物を前に、どの人も感嘆の声をあげていた。美しい、かわいいという感覚は万国共通であり、言葉や宗教やいろんなものを飛び超える。

 

 

3.言葉を超えたコミュニケーション

 

九寨溝に行った帰り、チベットの人たちの家で夕食をいただいた。同じテーブルに居合わせた初めましての人たちと夕食を共にし、夕食後はチベットの人たちにいざなわれて歌ったり踊ったりした。わけがわからないまま上手い下手は一切関係なく歌ったり踊ったりしたのだけれど、非常に楽しかったし初めましての人たちとの距離が一気に縮まったように感じた。夕食を共にしたり歌ったり踊ったり言葉以外のコミュニケーションをすることの重要性を感じた。

 

 

4.Totally Useless = Cute

 

パンダ基地でダラダラ寝ているパンダを見て、英語圏の人がこう話していた。

 

 

「Oooooh my god!! They are totally useless! Sooooo cute!!!」

(嘘でしょ!全く使いものになってないわ!やばいかわいい!!)

 

生き物の本質はそういうことなのだと思う。

 

 

5.自分の限界超えのススメ

 

今回の中国旅行では意図せずして驚くほどたくさんの限界越えをした。

 

朝の早さ(3時半起き)、汚さ(ボットン便所を軽く超える斬新なトイレ様式)、羞恥心をどこまで捨てられるか(左に同じ)、臭さ(左に同じ&臭豆腐初体験)、人との物理的な距離のなさ(中国人のパーソナルスペースはゼロむしろマイナス)、うるささ(中国人の話すボリュームは常に最大)、図々しさ(ぼーっとしているとどんどん順番を抜かされる)、辛さ(本場の火鍋)、油の一度の摂取量(左に同じ)、海抜の高さ(高度4,600mという富士山越えの境地)

 

正直あまり体験したいとは思わないけれども、自分の限界越えを体験することで、どんなときでも意外となんとかなるものだなという感覚が生まれたと同時に、日本のマイルドさに対する感謝が生まれた。

 

 

6.こころとからだは繋がっている

 

様々な限界越えをするという心身ともに非常に過酷な旅行になったにもかかわらず、体調を崩すことはほぼなかった。それはたぶん、私が自分自身に対して大丈夫だと信頼を寄せていたからだと思っている。逆に、いろんなことに対して心配をしていた私の友人は見事に風邪を引きお腹を壊した。この結果の差は偶然かもしれないけれども、そうでないかもしれない。

 

 

7.SNS依存度診断のススメ

 

中国は多民族国家のため、情報を厳しく制限・操作することによって国家の安定を図っている。そのため、ブログ以外のあらゆるSNSへのアクセスがことごとく遮断されていた。結果的に、自分の意志とは全く関係なく、現代日本という普段私が生活している世界から隔離されることとなった。

 

SNSから離れて気づいたことは、私はSNSに依存していないということだ。たぶん、最近は誰からも強い影響を受けていないのだと思う。ある意味で、自分の軸がぶれなくなったということなのだろうなと自分を分析していた。

 

SNSは便利でおもしろい反面、依存性が高かったり情報の海に溺れて自分を見失ったりするという副作用が強いように感じる。自分の軸をしっかりと持ちたい人は、今の自分がどれほどSNSに依存しているか知るために物理的にSNSから離れてみるというのもありかもしれない。

 

 

8.自分に素直になるとは

 

今回中国に行くことになったのは、大学の頃に仲良くなった中国人の留学生が現在中国に戻っており、中国を案内してくれることになったためだった。その中国人の友人がこんなことを話していた。

「私の会社に日本人がやってくると、みんな中国人のようになるんだよ。彼らは『日本にいると気を遣って言いたいことも言えないから疲れていたけれど、中国にいると言いたいことが言えるからすごく楽だ』と言っているよ。」

 

なるほどそうかもしれないと思ったけれども、すぐに疑問が出てきた。私は彼女と話していて、時折ムッとすることがある。それは彼女の価値観を押し付けてくるからだ。私は心が広いわけではないので、価値観を押し付けられると「いや、私は私の考えたいように考えるし。感じたいように感じるし。うるさいなぁもう」と思い態度が悪くなってしまう。

 

言いたいことが言える環境というのは素晴らしいと思うけれども、価値観を押し付け合うことがはたしてストレスレスなことなのだろうか。「~すべき」とか「~したほうが良い」といったジャッジの入った価値観の押し付けは、時に凶器になりうると私は思うのだ。自分に素直になるということは、決して価値観を押し付け合うことではなく、自分の抱いた感情を相手に話すことなのではないだろうか。自分の抱いた感情は自分だけのものであり、押し付けるということにはならない。「そう感じたんだね。」「そう思ったんだね。」と理解し合うのはコミュニケーションにおいて非常に重要であり、真の意味でストレスレスな人間関係を築くことができるのではないだろうか。

 

 

9.毎日が気晴らし

 

今までの人生で、旅行という非日常から日常に戻ることに対して抵抗がなかったのは初めてだった。日常に戻りたくないという抵抗が生まれるということは要するに、日常が好きではないということなのだと思う。私自身はそうだった。しかし今は、日常が大好きなので旅行から帰ることに対して何の抵抗もなかった。友人たちは「わー、メール溜まってるだろうな。チェックしなきゃ」とか「仕事忘れてないか不安」とかいろんなことを言っていたけれども、「~しなきゃ」ではなく「~したい」で日常を過ごしている場合、焦りや不安といったものは一切出てこないということに気づいた。本来、旅行など趣味が気晴らしというのは変な話であり、毎日が気晴らしである人生が楽しい人生なのではないだろうか。

 

 

10.人生は常に岐路

 

旅行中のある夜、ホテルの部屋で製薬会社に勤める友人と話していて、人生についての話になった。友人は「32歳の会社の先輩が今度2人目を出産するんだけど、キャリアも積みながら家庭も持っていて、人生順調だなぁと羨ましいんだよ」と話していた。「順調」とは一体何において言っているのだろうかと疑問に思い、友人に話した。

「親世代が良いと思ってきた『良い大学に入って、大企業に就職して、同じような人と20代で結婚して、子供を設ける』という人生を歩むことが本当に順調なのかな?人によって人生の歩み方は違うし、それに良い悪いはないのではないかな?」

 

同じ大学を出ていてもその後の人生は多種多様で、さらに視野を広げれば誰一人として同じ人生を歩むことはないのだ。何をもってして『人生順調』というのだろうか。「20代の選択によってその後の人生が大きく左右される」とよく言われる。確かに「子供を産む」という意味での肉体的限界は少なからずあるので、一理あるのだろう。しかし生き方の選択は常にしているわけで、生き方を変えることはいつからでもできるのではないだろうか。人生は常に岐路であり、その人が自分の意志で選択をし続ける限り、どんな人生だったとしても常に人生は順調なのだと思う。