一昨日は「死生観について語る」という『デスカフェ』なるものに参加してきた。

「不老不死の薬があったら、飲むか飲まないか」という話や「余命1年と宣告されたらどうするか」という話をした。

 

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私はありがたいことに、祖父母以外の身近な人の死を経験しているわけではないけれども、「生きるとは何か」とか「死ぬとは何か」を考えることの多い人生を歩んできたように思う。

 

私は子供の頃から「死んで自分という意識が消えるってどういうことか」とか「生まれてくる前の無の感覚ってどんな感じなのだろうか」とかを考えることが多かったし、宇宙とか神様とか集合意識みたいなものを空想しながら眠りにつくことが多かった。

 

私の母親は無宗教だけど、いろんな宗教や精神世界について勉強するのが好きだったため、母親の勉強に興味を持って話を聴くことも多かった。

 

小学6年生の時に結核の疑いで半年間薬を飲んだ時期もあり、江戸時代に生まれていたら私は12歳で死んでいたんだなと思ったし、今の時代に生まれた感謝や生かされている感覚もその頃から感じていた。

 

生きていてごめんなさいと思ったこともあるし、死にたいと思ったこともあるし、具体的な自殺方法についてガチで考えたこともあった。

 

こんな風にして、私の死生観は形成されていったのだと思う。

 

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生きていることは奇跡

 

最近、よりスピリチュアルに触れるようになってから、この地球上で生きていることがどういうことなのかとか、生まれる前や死んだ後はどうなるのかが明確になってきた。

 

それは、もともとみんな一つの大きな魂的な塊だったところから、分裂してきて地球上に生まれてきたということ。そして、地球上に体という「借り物」に入って生まれてくることも、生きていることも全ては奇跡なのだということ。死んだら元の一つの大きな魂的な塊に戻るのだということ。その一つの大きな魂的な塊は完全すぎて、何も無さすぎて、つまらないから、地球に遊びに来ているのだということ。辛い人生も、楽しい人生も、全てその一つの大きな魂的な塊が体験したくてしているのだということ。

 

誕生日は「誕り(いつわり)で生まれた日」という意味で、命日は「命に還った日」という意味なのだと仕事の仲間に聞き、日本語を作った古来の日本人は知っていたのかもしれないと鳥肌が立った。これはあくまで一つの説でしかないし、100%これしか信じないというわけではないけれども、何となく今の自分の感覚として、一番しっくり来ている。

 

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生と死には必ず意味がある

 

私は「生まれてこなければよかった」と思ったことがあるし、そう思ったことがある人も結構いるのではないだろうか。しかし、生まれてきただけですごいことだし、生きているだけで価値があるし、必ず意味があって生まれてきているのだと、私は最近思っている。

 

まだ子供のうちに亡くなる人もいるし、まだ子供が小さいうちに亡くなる親もいる。悲しみばかりに目が行きがちだけれど、本当は意味があって起こっているのだと思う。命の大切さを身をもって周りに教えてくれているのだと思う。そう思うと、自分のこの命、自分で断つという勿体無いことをするのではなく、最期の最期まで全うしたいと心から願う。

 

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生きた証を残す

 

デスカフェでお話しした女性が教えてくださった『ぞうのさんすう』という絵本では、象が毎日自分の糞を並べてゆくのだという。1年でする糞の数は50歳まで増え続け、その後は減り始める。それが何を意味しているのか象は悟る。100歳になったときに糞の数はゼロになり、象も生涯を終える。

 

「こういうお話しなんだけどね、その象が並べた糞はその後も残って、土壌の肥やしとなり、緑を育むでしょ。象が無(ゼロ)に還って行っても、その生きた証は必ず残っているっていうのがこの本の伝えたいことなのかなって私は想像しているの。」

 

この言葉を聞いて、私は自分の仕事場で浸透している『Leave a Legacy(生きた証を残す)』という理念を思い出さずにはいられなかった。私は、少しでも多くの人が本来の自分を想い出して輝くきっかけになること、それが自分の生きた証なのだと思っている。

 

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どう死ぬかは、どう生きるか

 

命とは「意(い)志を乗(の)せて散(ち)る」という意味なのだと聞いた。桜の花がその役目を終えていくとき、花びらがハラハラと散っていくように、命というものも散っていくものなのだと思う。桜の散り際が美しいように、命というのも散ってこそ潔く美しいのだと思う。

 

どんなふうに散る(死ぬ)のかは、それまでに自分がどう生きてきたかで決まるのではないだろうか。どう散りたいか(死にたい)かが明確にあれば、どう生きたいかは自ずと決まってくる。

 

私は最期まで自分のやりたいことをやり続けて死んでいきたいと思っている。血縁どうこうは関係なく大好きな人たちに囲まれて、大好きなことをして、「本当に楽しかった」と心からの笑顔ですっと息を引き取りたいのだと思う。

 

だからこそ、心が死んだ状態で生き続けたいとは私は思わない。生活のために、心を殺して自分のやりたくない仕事をやるのは嫌だし、自分の意志で動けなくなってからも延命治療で生き続けたいとも思わない。

 

私はこの↓CMがものすごく胸に来るのだけれど、日々の自分の選択が晩年の自分の生き方を決めるのだとしたら、今、自分はどんな生き方を選択したいだろうかととても考えさせられる。

 

 

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死生観を持つことの意義

 

死は怖い・痛い・悲しい・考えたくないというイメージが強いけれども、それでもいいのだと思う。死は自分が捉えたいように捉えればいいのだと思う。

 

私もずっと、死ぬことは怖いし痛いものだと思ってきた。しかし、死について明確なイメージを持つようになってから、死ぬことは怖くなくなった。明日死んでもいいように、今この瞬間の自分を最大限に大切にすることが、未来の自分や自分の子孫に繋がっていくのだと私は思っている。