東京に引っ越してから約3ヶ月ぶりに江ノ島へ行った。ちょうど去年の今頃から江ノ島によく通うようになったのを思い出した。私はどうやら海を心の拠りどころとしているようで、海を目の前にすると、そこはかとない安心感に抱かれることができる。

 

 

「なんでそんなに海が好きなの?」と聞かれると、理由は自分でもよくわかっていない。「私は実は泳げないのです」と言うと、さらに意味がわからないという顔をされるのだけれど、泳ぎたいから海に行くわけではなく、ただ波の音を聴いて、ただただ海を眺めているのが好きだと答えることしかできない。

 

砂浜のサラサラとした砂。

一歩足を踏み出すと柔らかいフカフカとした感触が足を覆う。

 

波のキラキラとした水のしぶき。

一つとして同じではない波の形と煌めきが目を楽しませる。

 

子ども達のキャハハハという笑い声。

波打ち際を走り回っている子ども達の楽しそうなあどけない笑い声が耳をかすめる。

 

潮のほのかな香り。

風に乗って運ばれてくるツンとした潮の香りが鼻をつく。

 

コーヒーのほろ苦い味。

海の近くのスターバックスで買ったコーヒーの苦さが口いっぱいに広がる。

 

何をするでもなく、自分の五感で目の前の大きな大きな自然をひたすらに感じる。ただそれだけで、幸せな気持ちになることができる。

 

ひとは何かを目指したり、問題を解決したがるけれども、私はたぶんただ幸せを感じていられればそれだけで十分なのだと思う。何かをしなければいけない、誰かの役に立たなければいけない、そう考えれば考えるほどに焦燥感と強迫観念に囚われてどんどんどんどん息苦しくなる。

 

時間は有限であり、時間を使うことは命を使うことなのだからと、その時間を無駄にすることなく使うことが素晴らしいとよく言われるけれども、無駄とはいったい何なのだろうか。何かを為さなければ無駄にしているのだろうか、何もしない時間があってもいいのではないのだろうか、なぜ一分一秒も惜しがって予定を詰め込む必要があるのだろうか、私には甚だ理解できない。

 

今私はデトックストレーナーという仕事をしているのだけれど、(こんなことを言ったらトレーナー仲間に殺されかねないが、)正直デトックスを広めたいとは微塵も思っていない。やりたい人がやればいいのだと思う。デトックスの素晴らしさを知ってはいるけれども、求めていない人にまで「やったらいいよ」とおせっかいを焼くことが私はどうも苦手だ。求めていないのならば、それでいいじゃないか。きっと私は、その人の選択を尊重したいのだと思う。誰もが自分の人生を意識的であれ無意識的であれ選択して生きていることには他ならない。苦しみたい人は苦しむことを選択しているし、楽しみたい人は楽しむことを選択している。現状を変えたいと思っている人に対して、「デトックスという手段もありますがいかがですか?」と一つの手段として提案することができればそれでいいのだと思う。その提案にアグリーするかどうかも全てはその人次第なのだと思っている。

 

私は坂爪圭吾さんの『奇跡は余白に舞い込む』という言葉が大好きで、自分のこころにも思考にも予定にも常にスペースを空けておきたい(余裕を持っていたい)と思っている。詰め込んでしまっては、別の何かが入る余地はない。ふたご座は自由を追い求める気質があるというけれど、5月26日生まれのふたご座の私も例に漏れず、常に自由を追い求めている。これだというものにのめり込むタイプではなく、常に新しい何かを探している。何かに集中することも素晴らしいことだと思うけれども、新しい誰かや何かに出会う奇跡を待ちながら、『いま』というこの瞬間を最大限にリラックスした状態で味わいきることが私という人間の地球での遊び方なのだろう。

 

海が私の最大のパワースポットだけれども、自然全てが実はそうで、昔の人が花鳥風月を遊びとしていたように私もまた、花鳥風月を遊びとするタイプの人間のようだ。ゲームやテレビや映画やマンガといった娯楽が溢れた現代において、私のような人間はだいぶマイノリティーに属しているように思う。時に寂しく孤独を感じることもあるけれども、マイノリティーだろうが何だろうが、私は自分のこの個性を抱き締めて生きていきたい。

 

そんなに自然が好きならば田舎に引っ越せばいいじゃないかと言われそうだけれども、たぶんそれはそれでつまらなくなってしまうのだと思う。完全に矛盾しているが、自然が好きだけれども刺激もほしい。だからこそ普段は首都圏に身を置いているのだけれど、せわしなく動き続ける人々の中で、焦燥感や強迫観念に囚われてしまうことは多い。そんなときは、自分のペースを取り戻す(自分をチューニングする)ために、これからも何度となく自然の力を借りたいと思っている。

 

今日の夕日は薄い雲に覆われて、その輪郭を直視することができた。真っ赤に染まったまん丸の太陽が、雲で霞んだ淡い藍色の富士山の後ろに少しずつ沈んでいく光景は非常に神秘的で、真っ赤なまん丸のその光が欠けていって見えなくなるまでただただずっと眺めていた。