女性にとって『第一の男』が本命だとすれば、『第二の男』が愛人あたりで『第三の男』はすなわちどーでもいい男といったところだろーか?
そういった意味でなら私は『第三の男』をひたすら演じ続けている自信がある。もはやライフワークといっても差し支えないくらいだ。
いらっしゃいませ、ペイザンヌです。
今回は少し冒険してみようかと思っております。
怖いなー ……なんか。
数ある映画の中でも超名作と呼ばれております、この『第三の男』。オールタイムベストなんかでもいまだに常に上位にありますやね。
えー、
世の中には向き不向きがあります。
得手不得手があります。
感性には個人差があり、時差もあります。
『第三の男』は評論家のサヨナラおじさまももちろん素晴らしいと言っております、海辺の村上カフカ様も絶賛しております。しかしどうしてもわからぬものはわからんのだということもあるのです。
彼らの真似をして絶賛するフリもできますが、そんなことをしても私は彼らになることなどできません。
そんな前置きをしておきつつ……てゆーか、まあ、ここまで言えばだいたいアタリはつくことでしょう。
つまり、なんとゆーかですね……すごく言いづらいのですが、ゴニョゴニョ 。
イチ映画ファンとしてこういうマイノリティな意見は“ゴーマンかましてよかですか?”くらいの気合いがないと言いづらいなぁ(汗)
「さぁーぁっせん! この映画ですね、いっちども面白いと感じたことがないんです!!!」
あーあ、言~っちまった言っちまった(汗)
((((;゜Д゜)))
「きっとそう感じるのは、わしゃがまだオトナになってないからさっ♪」なーんて、思いながらこれまでも二年に一回くらいは見直してたりしてきたんだけど……。
「そ……そろそろ、このおもしろさがわかるに違いないさ……(滝汗)。だってさ、だってさ、こんなにもミンナに絶賛されてんだぜ? (;´Д`)(荒い息)」 くらいの気負いで今回も見直してみたんですけど…… 。
いや、さんざん解説やら感想やら本で読んだりしてますよ。観覧車のシーン、ハリー・ライムの登場シーン、アドリブの鳩時計の台詞、下水道の逃走シーン、どこが凄くて素晴らしいのかは頭ではわかってるつもりなんですよ。つもりなんですが 、やっぱり、
(ノ-"-)ノ~┻━┻
「ぐぁぁぁっっ! コレ、ホントに面白いのかぁっ! 」
(*`Д´)ノ
てな具合で。
なんかね、よくわからんのですよ。どこに感情移入していいのか?
登場人物の行動がいちいち意味不明じゃね? と。(@_@;)
その中でも特にハテナなのが『そもそも、なぜ、ハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)はマーチンス(ジョセフ・コットン)をウィーンに呼んだのか?』という一番重要なポイントがなんだかすごく曖昧な点。
絶賛する方々はこの部分をちゃんと納得できているんだろうか? と、いつも不思議に思ったりします。
➡ 考察①闇の仕事の片棒を担がせようとした。➡ならば最初から二流作家なんて人種を呼ぱなくても、もっと武骨で裏社会に精通した者を選べばいいんじゃないか?
➡ 考察②ちょっと抜けててお人好しな彼を選んでハメようとした。➡だったら別に主人公をわざわざアメリカからウィーンへ呼ぶより、近場でそれなりのカモを選べばよかったんじゃないか? 彼でなければいけない理由がピンとこない。(その結果、やらなくてもいい第二の殺人まで誘発するハメになったわけだし、今度はその罪を彼に着せてしまおうトカ、もう本末転倒でわけわからん(@_@;))
➡ 考察③いろんな思惑はあれどハリーは裏社会の生活に少し疲れ、ノスタルジックな感覚で昔の友人である彼に“会いたかった”。これこれ。そう、実はこれが一番しっくりくる気がします。が、もしそうだとすると今度は“それを表す場面があまりに少な過ぎる”気がしないでもない。こじつけで、そう思うことはいくらでも可能なんですがね。もう、そうなると今度は、“実はハリーには破滅願望があって友であるマーチンスの手で止とどめをさしてほしかった”とか、そんなことまでこじつけられちゃうわけで。
見れば見るほどそんな疑問は蓄積していくばかり。
──なんでそんな危なっかしいってゆーかバレバレの偽装工作なんかするのさ? リスクばかり目立って必要性を感じないのだが…… 。
トカ、
──なんでそんなあっさり裏切るさ?
トカ、
──なんで一般市民の
しまいにゃ、
──てゆーか、おまえらホントに友情あったんか?
ハテナハテナハテナばっかしやん(汗)
いや、決して
見終わったあとも「このハリーライムという男、結局何がしたかったんねん?」と毎回思ってしまっている気がする。
そもそもそんな風にストーリー重視で見ている私が悪いのか? 全部俺のせいなのか? ともはや相手があまりに巨大なため、自分を卑下してしまうことしかできぬくらいです。
まあ、原作のグレアム・グリーン氏はこれを『読ませる』ためでなく『見せる』ために書いたと言ってるらしいので、映像重視型なのは間違いないんですが。
ただ、ラストのあまりにも有名なシーン。墓地の並木道をヒロインのアリダ・ヴァリが主人公に一瞥もくれず歩き去ってゆく絵画のようなシーン。あれはやはり素晴らしいですね。
まるで、どこかで見かけたり、自分の身に起こったりしてもおかしくないような身近な共感を呼び起こします。
あの待っている間の時間がたまらないんですやね。彼女が遠くに見え、こちらに歩いてくる。
どうなるのか?
どうなるのか?
何かアクションがあるのか?
あ、もうすぐすれ違う……。
あるよ。
あるだろ……。
あるよね? 普通。
まさかの?
ここでまさかの?!
はい、ドシカトーーっ!
ど、どぅぇ……ええーーっ!
……みたいな。
やっぱり、彼女にとってこの主人公ジョセフ・コットンも私と同じく『第三の男(どーでもいい男)』なのだな、と。
(ー_ー;) フゥ……。
オーストリアの首都でそんなことがあった四年後、今度はイタリアの首都でこれと似たような感じの名ラストシーンが産まれることになります。
『ローマの休日(1953)』です。
「滞在中、一番思い出に残った場所は?」と記者に質問されて「ローマです」と王女が答えた後のあのロングカットですね。
ズラリと並んだ各国の記者たちに一人一人挨拶を交わしていくアン王女(ヘップバーンですね)。だんだんグレゴリー・ペックの順番に(こちら側、観客の方に)近付いてきます。
くるのか?
くるのか?
何かワンリアクションあるのか?
アップに切り替わるのか?
特別な台詞があるのか?
はい、なにもなし~!
フツ~。
けれど、あの場合は「何もない」「皆にかける笑顔、リアクションと同じ」であればあるほど、もうたまらんくらいにグッときてしまうんですよね。ああ、むしろ『ローマの休日』の方が観たくなってきたよ、わしゃ。
そんなラストシーンはともあれ、『第三の男』は、退廃したウィーンの街の描写、光と影の歪み、カメラが常に斜めを向いていて徐々に戻っていき次のカットへ繋がる演出、などといった技巧を賞賛する言葉はよく耳にするんですが、キャラの心情や内面をピックアップした感想は本でもブログでもあまり語られてない気がするんですよねぇ。
あまり、皆そこにはこだわらんのだろーか。
うーん…… わからん。
(;´∀`)
やはりこの映画、
結論として、
『この映画をそこまでありがたがる人がおかしいのか、この映画の良さをわからんわしゃがアホなのかどっちかである』
後者でいいです。あー、いいさ(笑)
(ー_ー;)
とはいえ、そろそろアホは卒業したいので、また二年後に勝負かな、こりゃ…… 。
※ 実はこのエッセイの大半は “今から二年前” に書いたものなんです(笑) では、現在の『第三の男』に対する感想はというと……………… ???
それはご想像におまかせします!(〃ω〃)
ちなみにオーソン・ウェルズというとどうしても世代的に雑誌や新聞でさんざん広告されてたシドニー・シェルダン作の英語教材テープ『追跡』『ゲームの達人』『家出のドリッピー』などを思い出してしまいます。
お世話になった方も多いんではないでしょうかね? 私も実は使ってました(笑)
【本作からの枝分かれ映画、勝手に三選】
★『落ちた偶像(1948)』
……ちょうど「昔の映画をもっと見よう!」と勇み始めたティーンネイジ頃にNHKで観た記憶があります。『第三の男』の1年前に作られた同監督キャロル・リードの作品。そんなことすらまだ何も知らない頃でしたね。脚本も本作と同じグレアムグリーン。
少年の目から見た大人への憧れ、尊敬。それを打ち崩すような行動をとる大人たち。そんな危うい関係をサスペンスフルに描き、見事なほど皮肉なラストに唸ったものです。まるでヒッチコックの映画かと間違えてしまうほどで、私は本作よりもこういうタッチが好みなのかもしれません。
★『ラジオ・デイズ(1987)』
……巨匠!……というよりはあまりに人間的な監督(?)ウディ・アレン先生の作品。第二次世界大戦世界後の大恐慌から抜け出そうとしていたアメリカ。今では廃れがちなラジオという媒介を通して描かれる当時の庶民たちのほのぼのとした生活、そして希望。ラジオというのはこうしてみるとネットよりもより身近で、また、勇気を与えてくれる媒介だったのかもしれませんね。本作主演のオーソン・ウェルズがH.G.ウェルズの『宇宙戦争』をラジオドラマでやったところ本物の宇宙人が襲来したと勘違いして民衆がパニックになったという伝説がありますが、そのエピソードもこの映画の中でコミカルに描かれています。
★『エド・ウッド(1994)』
……史上最低の映画監督といわれたエド・ウッドの生涯を描いた御存知ティム・バートンのハートフル(?)コメディ。
どれだけこき下ろされようとバカにされようと自分がやりたいことに対して突っ走る姿にははからずも胸が打たれるところがあります。
たまたまバーで出くわした尊敬するオーソン・ウェルズに『他人の夢を映画にしてどうする。自分のために映画を撮れ』と言われるシーンが思い出されます。二人が出会ったのはフィクションですが、当時のオーソンウェルズは彼自身も『市民ケーン』を作るために映画会社と闘っていたので、そのことを考えるとさらに胸が熱くなりますね。
ちなみにこのオーソンウェルズ、ヴィンセント・ドノフリオ(写真)という俳優が演じているのだそうですが(声はまた違う人です)、見た当時はホントにCGだと思ってました……。