ヘブル4章14-5章10節 | ハッピー・バースディ・ファンドの記録

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2008年からフィリピンはデュエグ山、パンパガ、セブ島やマニラや北京のゴミ捨て場、ネパールはカトマンズ、シンドパルチョック、東日本大震災の宮城県・岩手県・福島県や熊本・阿蘇大震災などの被災地で働いてきました。愛と感謝の記録。



ヘブル4章14節〜5章10節


大祭司の任命と大祭司主イエスの権威

「しかし、私たちを助けるために天にのぼられた偉大な大祭司、神の子イエスが味方になってくださるのですから、私たちの告白する信仰を決して失うことがないようにしましょう。 この大祭司は私たちと同じ試練に会われたので、人間の弱さをよく知っておられ、ただの一度も、誘惑に負けて罪を犯したことはありません。 ですから躊躇せず、神の御座に近づいてあわれみを受け、時にかなって与えられる恵みをいただこうではありませんか。」

「ユダヤの大祭司は、人々の代表として供え物をささげ、神に仕えます。しかし、大祭司であっても同じ人間なので、人々のためだけでなく、自分の罪が取り除かれるためにもいけにえの動物の血をささげるのです。また、彼自身も弱さを身にまとっているので、無知な人や迷っている人を思いやることができるのです。

もう一つ、大祭司について言えるのは、自分の意志では大祭司になれないということです。アロンが選ばれた時のように、大祭司となる者は、神から直接、その務めに任命される必要があります。 キリストも名誉ある大祭司の地位につかれましたが、自分のご意志でそうなさったのではありません。神がお選びになったのです。神はこの方に、「わが子よ。今日、わたしはあなたを生んだ」 ( 詩篇2・7 ) と言われました。 またさらに、「あなたは、メルキゼデク(アブラハムの時代、サレムの王であり祭司であった人物。永遠の大祭司の型)と同じ位にある、永遠の祭司に選ばれた」 ( 詩篇110・4 ) と告げました。 

キリストはこの地上におられた時、死から救うことのできるただひとりの方に、うめきと涙とをもって祈られました。この祈りは、どんな場合にも神に従おうとする、キリストの謙遜で切なる願いのゆえに聞き入れられたのです。 イエスは神の子であるのに、神に従うことには多くの苦しみが伴うことを身をもって学ばれました。 この経験を通してご自分の完全さを実証し、その上で、ご自分に従うすべての人に永遠の救いを与える者となられたのです。 神がキリストを、メルキゼデクと同じ位に立つ大祭司としてお選びになったことを思い起こしてください。」

今日のテーマは、「大祭司の任命と大祭司主イエスの権威」です。主イエスが大祭司となって私たちを常に助けて、執りなし、味方になってくださいます。
「偉大な大祭司、神の子イエスが味方になってくださるのですから、私たちの告白する信仰を決して失うことがないようにしましょう。」(14節)

この偉大な大祭司は人間ではありませんが、人間の性質を経験され、私たちの弱さをご存知です。何という完璧な大祭司でしょうか!

「大祭司は私たちと同じ試練に会われたので、人間の弱さをよく知っておられ、ただの一度も、誘惑に負けて罪を犯したことはありません。 ですから躊躇せず、神の御座に近づいてあわれみを受け、時にかなって与えられる恵みをいただこうではありませんか。」(15節)

5章からは、大祭司の任命について書かれています。私たちは、それぞれの持ち場で働いていますが、主婦であっても、まず方向性と社会的役割social roleを示されます。それはどんなものであっても名誉のあるものです。仕事は、漢字の字の通りに「事に仕える」と書きます。つまり「サーブする」「仕える」のです。私は今、両親の介護をこの1ヶ月毎日しています。それも名誉のある役割・勤めであり、主イエスに任命されたものです。主の老兵に仕えることを通して主にお仕えしています。

しかし、役職・役割は全うされなければなりません。その役職・役割遂行にあたり、困難でないことは一体あるのでしょうか。苦しくない仕事はないです。しかしやっていくうちにコツをつかめて、要領がわかってきます。失敗もあります。数度の失敗を通して、完全な成功が与えられます。これを通して役割・役職は私達の骨と肉と血になって🩸いきます。

このように第一に「方向付けと任命」があります。第二に「任務を遂行することによる権威」が与えられます。それは名前ばかりの任命とは異なるものです。任命時点では単なるスタート地点に過ぎません。任務遂行によってその役職・役割は「実績そして実質」となっていくのです。

キリストも大祭司として任命され(第一段階)その任務をまっとう(第二段階)されています。ですから、人間としても神としても、あるいは人性humanityと神性divinityを兼ね備えながら、実質を伴った真の権威がキリストにはあります。

同様に私たちにも祈るという日々の行為を通して「執りなし手」としての実質が与えられています。このグループはコロナを通してリバイバルが起きるようにと昨年の1−2月に祈りました。その通りに、世界ではリバイバルが起きています。日本も霊的にすでに備えができていて、雪崩のように起きるのかもしれません。何かが、私たちの存在と祈りを通して変わっていく、これは、祈りが実質となっているからです。私たちが病の人のために祈ると、その人は必ず癒される、これが実質となっていることなのです。

「キリストはこの地上におられた時、死から救うことのできるただひとりの方に、うめきと涙とをもって祈られました。この祈りは、どんな場合にも神に従おうとする、キリストの謙遜で切なる願いのゆえに聞き入れられた」

キリストのごとく、私たちも大いなる叫びと涙を通してとりなしを続けていきたいと思います。最後までお読みくださりありがとうございました。

み言葉を思い巡らす素晴らしい1日となりますように🌸💐✨😆