松下村塾四天王たちの誕生地を訪問した後は… ”彼らの学び舎を見てみよう” という事で、松陰神社に向かいました。 

 

 

 

【 松下村塾 】

 

 

言わずと知れた、吉田松陰が塾頭を務めた私学校。

僅か九歳にして長州藩の兵学師範に就任した天才が、尊王攘夷の志士たちを多数輩出させた学び舎です。

 

 

(松下村塾 全景)

 

 

 

松下村塾は、2015年に ”明治日本の産業革命” として世界遺産に登録されています。 松下村塾の建物単体が世界遺産です。(松陰神社は明治新政府が後から建立したので世界遺産未登録)

 

 

 

 

 

 

高杉晋作や久坂玄瑞たちを筆頭に、明治維新の原動力となった多くの志士たちが巣立って行った松下村塾…

当時の場所に、当時そのままの姿で保存されていました。

 

 

 

(松下村塾 講義室)

 

 

今から百六十年以上前の封建時代… 入塾を希望する者の身分などは一切関係なく門を開き、たとえ町人や農家の子供であっても  「大いに議論し合おう! 共に学ぼうではないか!」 と語りかけた松陰。

 

 

松下村塾の基本理念は…

 

 

 

 

 

学は人たる所為を学ぶなり

 

”人として生を受けたなら、人としてどうあるべきか、世の中に何を為すべきなのか、それを学問を通じて追求しよう”  …という事。

 

 

松陰は様々な題材を塾生たちに与え、”自らの言葉で語り、自らの頭で考え納得するまで議論をしつくす” という、革新的な授業が行われました。 この八畳の講義室で塾生達と膝を突き合わせ、徹夜で議論に参加する事もあったそうです。

 

 

 

 

 

 

この講義室で、松陰や晋作たちが日本の未来について激論を交わしていたのかと考えると… とても感慨深いものがあります。

 

松陰は塾生に物事を無理強いする事はせず、塾生の長所短所を ”個性” として見つけ出し、長所を伸ばす事に重点を置いた教育が、今から160年以上も前の時代に行っていました。

 

 

 

 

 

 

松陰が塾頭を務めたのは、僅か二年四か月…

 

この短い時間の間に、”耳を飛ばし目を長くして、できるだけ多くの情報を集めよ” そして、”物事の本質を理解し、どの様に行動すべきなのか、自らの頭で考え実行せよ”  と教え、日本の未来を担う逸材を輩出させました。

 

高杉晋作が江戸修学に行く頃、松陰は塾生たちに向けて、壮大な言葉を贈り鼓舞したと伝わっています。

 

 

 

( 吉田松陰  )

 

「我らが故郷萩は日の本の僻地にあり、我らが松下村塾はとても小さな村の端にある。 萩からは久しく大業を為す人物は現れてはおらず。 しかし、今はその兆し大いに有り!  君たちは必ずや天下の英才として、この松下村塾から飛び立ち、日の本の根幹となるであろう!」

 

 

長州藩しか知らなかった若者たち…

藩主に希代の天才と称された松陰に、こんな事を言われたならば、 そりゃあ、燃え上っちゃいますよね🔥

 

 

 

 

 

 

松下村塾の裏手には ”学びの道” が在りました。

ここには、松陰の金言や名言がオブジェとしてたくさん建てられています。

 

 

 

 

 

 

吉田松陰への評価は ”賛否両論” あります。

”革新的な教育者であり人材育成の天才” という評価の一方で… ”純心な若武者を洗脳し、刺客へと作り替えた尊王攘夷思想の狂信者” とも。

 

しかし、維新の行く末を左右する人材と、維新後の日本を支えた人材を多く輩出した事は史実であり事実だと思います。

色々な事に思いを馳せつつ…

 

神として祀られている吉田松陰に、手を合わせた私なのでありました。

 

 

 

(松陰神社本殿)

 

 

 

晋作たちの議論風景を空想しながら学びの道を散策… なんだか小腹が空いてきた私(笑)  門前のお茶屋さんが暖簾を出していたのを思い出しました。 ブランチなので、お茶屋さんで丁度良い感じでしょうか。

 

”松陰だんご” とお茶にしようかなぁと思ったんですど…

 

 

 

 

 

 

松陰うどんに晋作うどん?…  商魂逞しい(汗

本日、ぽかぽか陽気。 松陰神社にいるので、冷風松陰うどんセットを注文。 うどんとおにぎりのダブル炭水化物(結局ガッツリ注文w)

 

何をもって ”松陰うどん” というのかは、見ての通り不明であります(笑)

 

 

 

 

 

 

お茶屋の女将さんから、”裏手の丘にある吉田松陰の生家跡には、松陰と晋作の墓がある” という情報をゲット。

 

な、何ですと???

 

晋作は下関の東行庵、松陰は世田谷の松陰神社に葬られているはず… 一体どういう事なんでしょうか? 若干のフェイク臭を感じてしまった私(笑)  これは、直接行って確かめるしかありませんね。

 

 

お腹を満たした後は、吉田松陰の誕生地に向かいました。

 

 

 

 

【 吉田松陰 誕生地 】

 

 

松陰の生家は、萩の町端にある丘の上(旧松本村)に在りました。 萩の町を一望する絶好のビューポイントです。

 

 

 

 

 

禄高200石の高杉家は外堀の直ぐ近くに居を構え、禄高40石の吉田家は城から遠く離れた萩の町端に暮らしていました… 封建社会の家格差を思い知らされる距離の違いです。

 

下級武士であっても有能であれば藩の要職に取り立てた、13代長州藩主 毛利敬親公の先見性を感じました。

 

 

 

 

 

 

松陰の誕生地一帯は公園として整備されていて、松陰先生が高台から萩の町を見守っていました。

 

 

 

 

 

 

生家跡には、山縣有朋の書による立派な顕彰碑も建ち、吉田家が使った古井戸が残っています。

 

 

 

 

 

 

松陰の生家跡は、何かの遺跡かと見間違う雰囲気が漂っていますね(笑)

 

 

 

 

 

 

松陰の生家、間取りはこんな感じだったそうです。

 

 

 

 

 

 

公園の一部は 吉田家に縁のある家の墓所になっていました。

 

 

 

 

 

 

案内板には、女将さんの情報通り ”松陰と晋作” の墓が記載されています。 吉田家、杉家、久坂家、玉木家… 松陰の縁戚が葬られている墓所のようですね。

 

 

 

 

 

 

案内板を見ていて、一瞬フリーズする私(不可解

 

ん? ちょっと待て…

久坂玄瑞と吉田稔麿の墓まであるじゃないか!(謎

 

久坂玄瑞は ”蛤御門の変”(禁門の変)で自刃、吉田稔麿は ”池田屋事件” で新選組に襲撃されて亡くなったはずです。 二人とも京都で亡くなっています。

一体どうゆう事???

 

 

 

 

【 吉田松陰の墓 】

 

 

松陰の亡骸は ”世田谷区にある松陰神社” に埋葬されています。

 

こちらの墓には 「小塚原処刑場で斬首された後、松下村塾の門下生が必死の懇願で松陰の遺体をもらい受けた時に手に入れた ”遺髪” が埋葬されている。」 と墓守をなされている方が教えてくれました。

 

 

(吉田松陰遺髪墓)

 

 

 

 

【 吉田稔麿の墓 】

 

 

稔麿は京都で起きた ”池田屋事件” で新選組の襲撃を受け、無念の最期を迎えました。 道端に放置されていた稔麿の亡骸を三縁寺の住職が境内に埋葬するも、その後に三縁寺は移転。 本当の埋葬場所はアクセス不可となっています。

 

 

※何も埋葬されていません。(墓守の方談)

 

 

 

 

【 久坂玄瑞の墓 】

 

 

玄瑞の妻(文子)は、吉田松陰の妹です。

かの有名な天下を揺るがした大事件 ”禁門の変” の戦闘で、公家の鷹司邸において入江九一と共に自刃。

 

京都の上善寺にある ”長州人首塚” に埋葬されているとしていますが、行方には諸説あり、正確な埋葬地は不確定。

 

 

※何も埋葬されていません。(墓守の方談)

 

 

 

 

【 高杉晋作の墓 】

 

 

下関の東行庵で神式の葬儀・埋葬が行われた後、高杉家は先祖代々の宗派による仏式での再葬儀が行われました。 高杉家の意向により、恩師松陰の遺髪墓の傍に墓が建立されたとの事です。

 

 

※晋作の ”へその緒と遺髪” を埋葬。(墓守の方談)

 

 

 

 

地元の方からもらう情報は宝ですねグッド!

幸運にも ”晋作のへその緒と遺髪が埋葬された墓” に手を合わせる事が出来ました(感謝

 

 

 

 

:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-:-:+:-:+:-:+:-:+:-:+:-

 

 

それでは、次号で sei
↓気が向いたら、ポチッとな (笑)