終戦の日に日本の自主独立について考える |  政治・政策を考えるヒント!

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   政策コンサルタント 室伏謙一  (公式ブログ)

 久々のブログでの執筆です。最近はプレジデントオンラインビジネスジャーナル等に多く執筆しているので、そちらも併せてご覧あれ。

 

 本日で終戦、もとえ敗戦から72年。今年も靖国神社に参拝するとともに、千鳥ヶ淵戦没者墓苑に拝礼してきた。連日降り続く雨に加えて、筆者が靖国神社に到着した時は雨脚が強まっていたこともあってか、昨年や一昨年と比べて参拝者は少なくなっていたように感じた。いわゆるネトウヨや軍服モドキのコスプレイヤーの類が今年は激減していたのではないかと思う。(逆に言えば、彼らはその程度ということだろう。)一方、千鳥ヶ淵は、海外における戦没軍人と一般邦人の遺骨が納められているというのに、今年も人影はまばら。なんとも釈然としない。こうして先の大戦の記憶が風化していく一方で、戦後教育とそれへの屈折した反動も合わさって、虚構混じりに大戦が後世に伝えられていくことが大いに懸念される。(これは左翼と呼ばれる人たちにとっても、右翼と呼ばれる人たちにとっても、である。)

 

 そしてそのことは、我が国を取り巻く国際的な環境の変化、とりわけ国防・安全保障を巡る環境の大きな変化にどう対処していくのか、もっと根本的には我が国の自主独立をどう確保していくのかということと密接に関係している。なぜなら、過去の大戦を偏見なしにできる限り客観的に直視するということは、我が国が置かれた立場、状況を理解するにおいて、必要不可欠だからである。

 

 我が国は、戦略もなく、中国への無意味な戦線拡大によって米国等と衝突することになり、資源確保のための南方への進出も余儀なくされ、自らの戦争遂行能力を大幅に超えた米国との全面戦争に、戦略もなしに引きずり込まれた。そして米国に打ちのめされ、完敗した。戦争が終わったのでもなければ、軍部による軍国主義、ファシズムから解放されたのでもない、日本は戦争に負けたのである。まずこのことを、日本は敗戦国であるということを出発点として改めて認識しなければならない。

 

 アメリカの戦争の最終目的は、日本を二度とアメリカに立ち向かうことができない程度に破壊すること。(マッカーサーは日本をフィリピン以下の経済水準にすることを当初目指していたそうだ。)その目的は基本的にはその後も変わっていない、少なくとも「二度とアメリカに立ち向かうことができない程度に」という点についてはそうである。自衛隊の創設や経済復興はあくまでも米ソ冷戦、東西対立が始まったという事情の変更によるもので、冷戦が、東西対立が終結すれば、アメリカにとっての自衛隊の位置付けや日本経済の状況の意味も変わってくる。

 

 日米同盟と呼ばれる日米安全保障条約は、冷戦期は日本を西側陣営に繋ぎとめるとともに日本を、自衛隊を東側陣営に対する防波堤として利用するための道具として位置付けられた。これが冷戦が終結すると、日本はアメリカの仮想敵国として再び位置付けられるようになり、日本に自主防衛力を持たせないよう抑え込む道具として位置付けられるようになった。

 

 経済についても同様で、冷戦期は日本の共産主義化を防ぐため経済発展、経済成長が後押しされ、更にアメリカ経済を支えるためにバブル経済まで創出されたが、用が済めば跡形もなく崩壊させられ、失われた20年が始まった。(詳細については水野和夫氏の新著『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』を参照されたい。)

 

 また、アメリカの核の傘とよく言われるが、それは冷戦期の話であって、冷戦が終われば核の傘はなくなったと考えたほうがいい。それ以前の問題として、中国は核保有国であるとともに軍拡を続けているし、北朝鮮は核を保有するのみならず、米国東海岸にまで到達しうるICBMまで開発し、保有するまでに至った。この状況下で、米国が中国や北朝鮮と正面切って戦争をするなどということはおよそ考えられない。(8月14日に発表されたアメリカのティラソン国務長官及びマティス国防長官による共同声明からも明らかである。ホワイトハウスのサイトに全文が掲載されているので参照されたい。)そうなれば、核の傘は、西部邁先生の言葉を借りれば「破れ傘」であるに等しい。

 

 先の大戦でのアメリカの最終目的は、日本を「二度とアメリカに立ち向かうことができない程度に」破壊することであると述べた。そして戦後の対日政策も「二度とアメリカに立ち向かうことができない程度に」しておくことが基本方針であることについても指摘した。このことは、日本に自主防衛力、つまり日本に自分たちの軍事力だけで自国を守ることができる能力、これを持たせないということを意味する。

 

 日本で保守を自称する政治家等が、自主防衛力を保持することになれば莫大なコストがかかり現実的ではないのであるから、日米同盟を強固にしてアメリカに寄り添っていれば日本の安全は保障されると臆面もなく言うのを聞くことがあるが、それで保守を自称するなど笑止の沙汰である。自国を守ることができる能力を有する軍隊を持たないで国家の独立を確保することなど不可能である。まして他国の軍隊に守ってもらおうなどと、なんともお気楽な発想である。(コスタリカは軍隊を保有しない国であるとされるが、常設のコスタリカ軍は存在しないものの、警察組織の能力が高く、有事の場合は一義的には警察組織による対処が想定されているようである。そもそも、米中露という3つの大国に囲まれ、かつ米中露朝という4つの核保有国に囲まれている日本と比較し、同様に考えるのは無理がある。)各国はあくまでも各国の国益に基づいて行動する。冷戦期においては、確かに日本を東側陣営から守ることが米国の国益に繋がる面があったかもしれない。しかし、これまで指摘しているとおり、現在は状況が全く異なる。それにも関わらず冷戦期の発想から抜けられないし、それにしがみついていようとする、なんとも情けいない話であるが、これが日本の現状である。しかも、実態を知らないとか、気が付かないのではなく、どうやらつきつけられた現実に対して、単に目を背けているだけのようにしか筆者に見えない。

 

 そろそろ、日本は敗戦国であること、アメリカの開戦以降の基本方針は日本を「二度とアメリカに立ち向かうことができない程度」にすることであること、少なくともこの二つを直視し、認識し、自主防衛力の強化を含め、日本の自主独立を本気で考えるべきではないか。別にアメリカに報復戦争を仕掛けろと言っているのではない。アメリカは既に「世界の警察官」の地位から降りており、世界中で戦争を遂行する能力もないし、無駄な戦争をする気もない。トランプ政権になってからはなおさらそうである。

 

 先の大戦で失われた尊い命に報いるのであれば、8月15日は日本の自主独立を考える、それを始める、そのことを誓う日とすべきであろう。