阪神大震災から23年目に思う-私的な経験と記憶に基づくいくつかの雑感- |  政治・政策を考えるヒント!

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   政策コンサルタント 室伏謙一  (公式ブログ)

 阪神大震災が起きたあの日、当時大学4年生だった私は目覚まし代わりにしていたラジカセから聞こえてきたラジオのニュース、「関西地方で大きな地震があり〜」で飛び起き、テレビをつけて目に飛び込んできたのは無残に倒れた阪神高速のヘリコプターからの映像だった。すぐに関西にいる友人や後輩に電話をかけたが一切繋がらず。刻々とテレビやラジオを通じて伝えられてくる情報が、大きな地震があったということ以外しばらく整理ができなかった。その後安否情報も徐々に判明してきて、幸いにも友人や後輩は全員無事であることが確認できた。中には熟睡していて地震に一切気付かず、起きたら天井が目の前にあったといった豪快な後輩もいたが。

 

 さて、震災を機に防災が重要な政策イシューとなった。活断層という耳慣れない言葉が連日メディアを賑わせた。また、被災者の支援のためのボランティアが話題となり、ボランティアに行くことがある種の流行にまでなっていた。私はあるラジオ番組の学生スタッフをしていたが、その番組でボランティアを取り上げた際に、ゲストとしてスタジオに来ていたボランティアの一人が、「テレビに映るようなボランティアもいるが、我々のように映らない見えないところで地道な作業をしているボランティアもいるんだ。」と切々と訴えるのを聞いて、ボランティアといってもその程度の、自分の存在を確認するための、自己満足の世界の、ある種押し付け押し売りにも近い「ボランティア」もいるのだなと強く思った。私はそれ以降「ボランティア」という言葉には少々嫌気がさすようになった。(後から聞いた話だが、暴力団の山口組はいち早く被災者に対する炊き出しを組員総出でやったらしい。朝鮮学校の職員や生徒たちが炊き出しでお汁粉を作っていると、お汁粉をもらいに来たオッチャンが「キムチ入れるなよ〜。」とイジっていくようなこともあったそうだ。「ありがとう」とか「がんばってや」と直接言わずにこの手のことを言うのがいかにも関西らしい微笑ましいエピソードである。関東でこんなことを言えば、すぐに差別だなんだということになって、大騒ぎになっていたことだろう。「ボランティア」、やるなら無私でその地域に入っていけるか、ということだろう。)

 

 NPO法はこうした動きを受けて立法されたと記憶している。活動の円滑化を図ることが主な目的であったが、NPOはいつしか利権とは言わないまでも、その手の人たちの牙城というか自分たちの世界になり、社団法人・財団法人制度の見直しの際に新制度への統合に強硬に反対する意見が出て蚊帳の外に置かれ、イビツな制度として残ることになった。少なくとも私はそう考えている。

 

 活断層という言葉は首都直下型地震への備えという話に発展し、首都高など様々な構造物で耐震補強工事が始まった。耐震補強工事には当然時間がかかるもので、それが完成する頃には、地震への備へという発想は、世間では徐々に薄れていってしまったように思う。耐震工事を邪魔者扱いする声まで聞こえたくらいである。

 

 阪神大震災という呼称、当初は兵庫県南部沖地震と呼ばれていたように記憶している。それがあれだけの被害が出たのだからということで、確かマスコミが最初に使い始めた阪神大震災という呼称が定着していった。呼称はどうあれ、被災地の復旧・復興と被災者の救済、そして将来的に起こりうる震災への備えの拡充、それを考え、前に進めるべきなのに、何をしているか、私は少々冷ややかに見ていた。

 

 震災の年にはオウムによる地下鉄サリン事件も起きた。私も時間が違っていれば巻き込まれるところだった。凄惨な事件であり、犯人がオウムであったことから、それ以降は話題の中心はオウムへと移っていった。一方で、復旧も急ピッチで進んでいった。新神戸駅近くの真横に倒れたビルが、数ヶ月と経ずして跡形もなく撤去されたのはその一つの象徴だろう。(もっともこのビルの撤去をそれほどまでに急いだのには別の理由があったとも聞くが、真相や如何に。)

 

 以上、雑感として。