安倍晋三元総理大臣が亡くなった。心よりご冥福をお祈り申し上げる。
暗殺だった。
暗殺なんて、今の日本で起こるはずがない。ルパン三世かゴルゴ13の世界の話でしょ・・・と5年ほど前まで思っていた。
歴史の勉強をしていると、歴史は歴史じゃないし、現在も歴史の一部だと思うようになった。
いわゆる学校教育で教科書で歴史を勉強していると、歴史なんて過去のことでしょ、と思うようになる。
縄文時代の生活なんて、今からは想像できないし、ドラえもんの映画と同じで作り話のように思えてくる。
しかし、歴史は歴史じゃなかった。
古代には携帯電話もないし、電車も走ってないけど、人間はいた。
人間が作ってきた文明の先っちょに、私たちは生きているんだ、というのが段々分かってきた。
暗殺は卑怯だ。
人間、生きていれば誰しも、殺したいほど憎い人が一人や二人いるだろう。
でも、憎い気持ちを必死に押し殺して、我慢して、何とか心の中で折り合いをつけて生きている。
いくら気に入らない相手でも、殺してはいけない。
どんなに殴られても殴り返してはいけない。理由はどうあれ、暴力を手段に用いることを認めない。
これが法治国家の大前提だ。
「暴力を許してはいけない。暴力は民主主義の否定だ。」
そんな声が多く聞こえてくる。
その通り。
暴力を肯定することは、民主主義を否定することに通ずると思う。
選挙は内戦の代替手段だそうだ。
選挙がない時代、日本はもちろん、世界中で殺し合いによって、誰が政権を握るかを決めていた。
〇〇戦争とか、〇〇の乱なんかは、多くが政権争いの延長上で起きた殺し合いだ。
殺し合いに勝った人が政権を握り、負けた人は・・・(略)
そこへ、日本にも民主主義の仕組みが届いた。
投票箱に入れられた紙に書かれた数が多い人に、政権を預ける、というルールだ。
日本には明治時代のはじめに導入されたが、まだ馴染みがなかった時代だし、ちょっと前まで江戸時代だったしで、始めの選挙では暴力が横行した。
死人も出たし、けが人もたくさん。品川弥次郎が選挙干渉をしてやっと政府側が政権を握れたという始末。
政府側が暴力を許容して選挙を行うんだから、本末転倒だ。
ただ、日本が大規模な暴力を用いたのははじめだけだった。
すぐに暴力を伴わない、公平な選挙ができるようになった。
民主主義は完璧なシステムではないし、問題点もたくさんある。(そもそも衆愚政治だし)
それでも、暴力によって誰も傷つかないところは、誰がどう見ても良い点だ。
今でも、とある大国では投票箱にすべての紙が投げ込まれた後にも、集計中に不正があるそうだ。
「いや、むしろ、公平に集計されることの方が、まだまだ珍しいんだ!」なんて言う人もいる。
選挙は、公平に集計する人が集計しないと機能しない。
民主主義っていうのは、システムにすぎない。そして、そのシステムを運用するのは、人間なのだ。
暴力を使おうとする人が出てくれば、暗殺だって起きる。
集計をちょろまかそうとする人がいれば、不正が起きる。
民主主義は、その国の人の努力によって担保されるんだなぁと、つくづく思う。
戦前の日本では、憲政の常道という慣習があった。
いくつかルールがあるが、その一つが「暗殺による政権交代を認めない」だ。
与党の総理大臣が暗殺されて政権交代が起こってしまったら、「気に食わない総理大臣は殺せばよい」となってしまい、暗殺を助長してしまう。
しかし、犬養首相が515事件で殺されたときは違った。
暗殺した人をかばう言論が多く登場したのだ。
その4年後には226事件。そして日本は敗戦への道を一歩ずつたどる。
民主主義は、かくも脆い。
安倍元総理には、色々な思いがある。
政治に関心をもって初めて応援した総理だった。
特に、第2次政権の初期には、大きな夢を見させてもらった。このままいけば、日本が本当に強くて豊かな国になるんじゃないかと思った。
でも、たった一瞬の出来事で死に至ってしまう。
壮絶な人生だったことと思う。普通の人なら投げ出してしまいそうな誹謗中傷もたくさん受けて、それでもユーモアを忘れずに明るく前向きに生きてらっしゃったと察する。
これからは、少しお休みください。