世界報道写真展2009
世界報道写真展は、学生の頃から毎年行っている。
どんなきっかけで行くようになったのか覚えていないのだけれど、
一度足を運んでから、毎年行くようになった。
今年は写真も凄かったけれど、
ガザの空爆のドキュメンタリーフィルムが凄かった。
あれはやられたなあ。
報道写真というと、どうしても戦争ものが多くなる。
悲劇がほとんどになってしまう。
報道の意義はやはり知ることだと言われるけど、
圧倒的な現実、未だにこのような殺戮が繰り返される情景を見ていると、
果たして知る必要があるのか疑問に思ってしまう。
個人の幸福を考えるなら、知る事が必ずしも良いとは限らないのではないか。
知らなきゃ幸せ、ということもあるではないか。
ふと、そんな考えも頭に浮かんだ。
真っ当に自分の生活を営み、人を、自分を大切に生きているのなら、
こうしたことも知ることは無いように思う。
そしてもちろん、裕福なことは享受して良いものなのだ。
このような考え反論はあるだろうし、
僕にできることはせいぜい考え続けることくらいだ。
ここに並べられた写真を眺めていると、
「人間」について考えざるを得なくなる。
そして、また、わからなくなる。
こうした悲劇の前で正当な理由は無いが、
それでも人間というものを肯定していきたいという思いは、変わらなかった。
たぶん、来年も普通に足を運ぶことと思う。
■世界報道写真展2009
どんなきっかけで行くようになったのか覚えていないのだけれど、
一度足を運んでから、毎年行くようになった。
今年は写真も凄かったけれど、
ガザの空爆のドキュメンタリーフィルムが凄かった。
あれはやられたなあ。
報道写真というと、どうしても戦争ものが多くなる。
悲劇がほとんどになってしまう。
報道の意義はやはり知ることだと言われるけど、
圧倒的な現実、未だにこのような殺戮が繰り返される情景を見ていると、
果たして知る必要があるのか疑問に思ってしまう。
個人の幸福を考えるなら、知る事が必ずしも良いとは限らないのではないか。
知らなきゃ幸せ、ということもあるではないか。
ふと、そんな考えも頭に浮かんだ。
真っ当に自分の生活を営み、人を、自分を大切に生きているのなら、
こうしたことも知ることは無いように思う。
そしてもちろん、裕福なことは享受して良いものなのだ。
このような考え反論はあるだろうし、
僕にできることはせいぜい考え続けることくらいだ。
ここに並べられた写真を眺めていると、
「人間」について考えざるを得なくなる。
そして、また、わからなくなる。
こうした悲劇の前で正当な理由は無いが、
それでも人間というものを肯定していきたいという思いは、変わらなかった。
たぶん、来年も普通に足を運ぶことと思う。
■世界報道写真展2009