大森一樹先生、本当にありがとうございました。 | PERFECT PERSONAL WORLD

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西に東に、はてしない追っかけ日記

大森一樹監督がお亡くなりになりました。

訃報が伝わった11月15日よりも前、12日の土曜日の午前11時28分、西宮の病院で急性骨髄性白血病で逝去されたとの事。
訃報が伝わった3日前に既にこの世を旅立たれていた事に実感が湧きません。

今日、16日の朝刊やスポーツ紙をあるだけ買いましたがどの新聞も、特にスポーツ紙は大きく記事を割いていて。本当に凄い方だと感じています。

最初にお会いしたのは19年前の春。母校の大阪芸大の大学院事務室で働いていた時、先代の映像学科長・中島貞夫先生が大森先生を連れて来られたのをはっきりと覚えています。
多分その日だったと思いますが、0号館前の教職員バスの乗り場でバスを待たれていた大森先生の下に走り、最初のサインをいただきました。



サインに記された日付けは2003年5月3日。間違いなく大森一樹と最初に話した日です。

その後、ゴジラ好きとして覚えてくださったようで、ある時は近鉄の喜志から阿倍野橋までをご一緒し、質問攻めにした記憶があります。仲の良かった院の助手の方から「あいつは芸大で一番の俺のファンだ笑」と言われていたと聞きました。
多分、ゴジラ以外の大森先生の映画についてもお聞きしたからでしょう。
その後も食堂でご一緒したり、芸大の行事の際は立ち話した……と様々な記憶が蘇ってきます。

探したのですが、この頃に大森先生と一緒に撮った写真が無くて記念写真をお願いしておけば良かったと後悔しています。

芸大を離れた後、2009年11月19日。
この日は、映画館完成を記念して川北紘一特技監督を初めてお招きしての特別講義『私たちがビオランテを創った』が行われた日でした。

何としても「川北監督にお会いしたい!」と当時は後輩に頼んで参加の道を探りましたが、最終的に映像学科に直接問い合わせて(学科は違いますが)OBとしての参加が叶いました。
当日、9号館の前で顔見知りの教務課のM宮さんと話している大森先生とお会いしたのを覚えています。「川北さん紹介したるわ」と気を遣っていただきました。
この特別講義の最後に学生達へ「いつか君達がゴジラを作ってください、そして我々を監督に起用してください」と結ばれたのをよく覚えています。
多分この日から、大阪芸大映像学科の特撮コースに繋がり、川北監督亡き後は三池さん、佛田監督、尾上監督が受け継がれて続いている道となっています。

大阪を離れて福岡に戻った後、2014年8月31日。
あべのハルカスのスカイキャンパスでの大ゴジラ特撮展・大阪展。
川北監督に最後にお会いした日でしたが、サイン会に並ぶ列に私を見つけて「元職員が来た!」と声をかけていただきました。「すっかりゴジラ学科になってもうたわ笑」と笑われつつも楽しそうに見えました。

そして、以前もお話ししましたが、福岡特撮座談会の構想時にイベントの実現についてご相談に伺った際「ええよ。福岡に行ったるわ」とご快諾をいただき、実現に向けて大きな後押しをいただきました。
福岡特撮座談会は俳優の橋爪淳様にチャンスをいただき2017年の4月23日に始まります。

それに続く2018年2月24日に福岡特撮座談会vol.2〜大森一樹さん(脚本家・映画監督)として大森監督の来福が実現しました。
聞き手の一人をお引き受けいただいた漫画家・坂井孝行先生のお力もあって、皆様にお楽しみいただく会になったと思っています。
その翌日に共同で九州にお招きした大分のキネマ実験室様の上映会の為、大分の別府にご一緒に旅した事は生涯の思い出となりました。

最後に直接お目にかかったのは、4年前の2018年の12月19日に特撮のDNA・蒲田展での会場でした。
薩摩剣八郎さん、小高恵美さんとのトークショーの後、光栄な事に大森先生のお声がけでその打ち上げに参加させていただきました。
打ち上げの後、途中まで京浜東北線でご一緒しましたが、まさかそれがお会いした最後になるとは思いもしませんでした。







その後、手塚昌明監督の座談会と日程が重なり実現はしませんでしたが、その翌年に大分でのイベントの司会にご指名をいただいたり、シネマノヴェチェントでは「彼は元気ですか?」と言われていたのをお聞きして嬉しく思っていました。3月の上映会、行けば良かったと心から後悔しています。

実はご本人にお話はできなかったのですが、「ゴジラVSキングギドラ」公開30周年の昨年に再び福岡にお招きしたいと考えていましたが、折からのコロナ禍で実現できず、本当に悔しいです。

大森先生とは昨年と今年の年賀状でのやり取りが最後となりました。
「また九州に呼んでください。待ってます。」と多分青の万年筆でメッセージが添えられていて、それを実現させてお会いできるのを楽しみにしていました。

つい最近、人伝にご体調が悪いらしいとお聞きしていて、シネマノヴェチェントの上映会も体調不良で中止となり、心配していた矢先の訃報に言葉が出ませんでした。

福岡特撮座談会vol.2でお聞きした忘れられない話があります。

「ゴジラVSビオランテ」で川北監督が撮られた水中を泳ぐゴジラ。
「物体が右から左に動くだけで『なんだこれ』」だったそうで川北監督に逆らって大森先生が編集され、

「尻尾が先に行って、その後頭になるように入れ替えた。単純なことなんですけど、それだけで映画って変わるんですね」

多分、ゴジラの監督と言われ続ける事が嫌な時期もあったのだと思っているのですが、このお話を聞いてそれでも「特撮」という「映画作り」が本当にお好きで楽しまれたのだと思います。

前述の特別講義『私たちがビオランテを創った』で「平成ゴジラクロニクル」にいただいたサインに“We made Biollante”〜私たちがビオランテを創った、と添えていただいたメッセージをとても気に入ってます。





“I”ではなく“We”である事に、川北監督とお二人で映画を撮られた、大きく言えば平成ゴジラの時代を二人で創られたという自負を感じています。

この記事の為に写真を整理していて気付いたのですが、5年前の今日は大阪芸大まで福岡特撮座談会vol.2の為の打ち合わせに大森先生を訪ねた日でした。





他にもお亡くなりになったご縁があった先生方の事もそうなのですが、また大阪芸大に帰った時、天の川通りを歩いていて、きっと大森先生を思い出すと思います。
私にとっては、恩人でした。

大森一樹先生、ありがとうございました。

本当に早すぎます。