私が以前、ギターでFが押さえられなくて、代理コードでしのごうか…とした時
「それではダメ」というコメントをギターを弾く知人からもらったことがある。
(※ギターでFというコードを弾こうとすると、なんだかイデデデ…となる手の形になります。ギターされる方の最初の壁らしく、F問題、最大の壁…と言われたり。なんともない方にはなんともないのだろうけど…私にはとても難しかったです)
わかる。FはFでしかないこと。Fの役割。大切さ。代理はあくまで代理でしかないこと。
理論はわかるだけに、大切にしたい。弾きたいのはヤマヤマなのです。
けど自分の指の弱さと、手の小ささで弾けない情けなさ…
思えばお下がりギターだったからもっと小さめギターにすれば良かった?
(けど結局それも、ギターの小ささでごまかしちゃダメ!と言われた)
結局、ギターはやめてしまった。
で、その時改めて思ったことを、今朝思い出したのでまた書く。
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これをピアノに置き換えたとき。
現実のレッスンでは様々な状況(理解度、身体的特性、年齢など)の生徒さんが来られるので、
場合によっては、本来ファラドで弾くところを、ドファラやファラ、もっと簡略化してファだけにしないと弾いてもらえないことがある。
そしたら…その理論でいくと
「ファラドじゃないとダメ!ファに逃げてはダメ!」となってしまう。
どうなるかというと…
多分、かなりの生徒さんがその時点で「弾けない…諦めます」となる。
大人で好きでその楽器を練習されてきて、既に奏法を習得された方にとってはもう乗り越えられたことなので、問題なし。
けどそれを、弾く技能を今から身につけようとする人に全て当てはまる、と考えるのは
とても危険。
手の大きさ、強さ、関節の柔らかさ、指先のコントロール、筋肉、脳の働き、理解力、読譜力、練習できる環境…
決して、全ての人が自分と、誰かと同じではない。
根性論で全てが解決できるとは限らない。
初心者…音楽の入り口にいる人に
「こうでなくてはならない」というシャッターで、その先の可能性をピシャーン!と閉ざすことになってしまう。
FがFなのは当たり前。
そのあるべき形の、その前のスモールステップをたくさん設けて、その人の「弾きたい」気持ちに寄り添いたい。
それを
「ぶれてる」「理論がなってない」
と言われても、気にしません^^
私がしたいのは、人に優しい音楽。
私の正義感を人に押し付けることで、その先の可能性を潰すことをしたくないです。