語録3 | パーサによるトマスの福音書

パーサによるトマスの福音書

Closing the Circle: Pursah's Gospel of Thomas and a Course in Miracles

「神の使者」、「不死というあなたの現実」で再生された、トマスの福音書について書かれた「Closing the Circle」の和訳です。

野口博和さんから以前頂いてた、和訳をアップしています。

 語録3
Jは言った。
「もしあなたがたの教師があなたがたに、『見よ、神の聖なる支配は空にある』と言うなら、鳥のほうがあなたがたに先んずることになる。彼らが『それは海にある』と言うなら、魚のほうがあなたがたに先んずることになる。そうではなく、神の聖なる支配はあなたがたのなかにあり、あなたがたはどこにでもある。あなたがたが自分自身を知るとき、あなたがたは知られ、あなたがたはわたしたちが一つであることを理解するだろう。だが自分自身を知らなければ、あなたがたは貧しさのなかで生き、あなたがたは貧しい」
J said, “If your teachers say to you, ‘Look, God’s Divine Rule is in the sky,’ then the birds will precede you. If they say to you, ‘It’s in the sea,’ then the fish will precede you. Rather, God’s Divine Rule is within you and you are everywhere. When you know yourself, you will be known, and you will understand that we are one. But if you don’t know yourself, you live in poverty, and you are the poverty.”

鳥や魚についてのコメントは、私にこれらのコースの言葉を思い出させる。
神への私たちの道は、「決して変わっていない目的地への距離なき旅 (a journey without a distance to a goal that has never changed)」(T-8.Ⅵ.9:7)である、や、エゴのモットーとは、「探せ、だが見つけるな。(Seek but do not find.)」(W-71.4:2) である。

もし私たちが、「王国」、あるいは 「神の聖なる支配」はどこか他にあり、私たちがいつか辿り着かねばならない所だと思うならば(しかもこれが、エゴがいつも決まって私たちに信じさせようとすることである)、それは分離をもう一度再び断言するための、新たな隠れみのである。なぜなら、それは、これまでに私たちが「神の聖なる支配」の外にいることがあり得た、という考え以外の何ものでもないからである。
 私たちの外の世界に魔法の救世主たちはおらず、辿り着くべき場所もない。そして唯一の旅路は、「愛の存在の自覚(the awareness of the love’s presence)」に対する障害を取り除くことである。それは、私たちが自分自身で築いたのであり、我が家へ帰るためには、自分自身で取り外さなければならないのである。
これは美しいイメージであり、私たちに次の事実を思い出させてくれる。
それは、「神の聖なる支配」が内に、つまりまさに今、ここにあり、始めからそうでないことなど決してあり得なかったことを私たちに思い出させなくしているのは、私たち自身の恐れ以外にない、ということである。
私たちは、私たちが知るすべてと、一つなのである。(We are one with all we know.)
残りについては、最後の行がむしろ興味深い、そしてそれは、次のようにも言い換えることができると思う。
「もしあなたが神の子としての自分を知るなら、人々はあなたのうちにそれを認め、あなたは霊の豊かさのなかで生きるだろう。」これをコースのあの言葉と比べてみてほしい、
「あなたはたびたび笑うようになるが、あなたの外見は変わらない。あなたの額は穏やかで、あなたの瞳は安らかだ。そしてあなたと同じようにこの世界を歩く者たちは、自分たちのものを認めるだろう。」
“You do not change appearance, though you smile more frequently. Your forehead is serene; your eyes are quiet. And the ones who walk the world as you do recognize their own.”(W-155.1:2-4)
もしあなたが自分が誰か知らなければ(すなわち、自分をエゴだと信じることで)、その時あなたは(神の愛の)欠乏のなか、つまりは不足というエゴの思考体系のなかで、生きていることになる。それは明らかに、神が私たちに愛を差し控えようとしたからではなく、私たちが自分で分離を選んだことのためなのである。

一つの最終的な見解として、なぜトマスが「正典の(canonical)」伝承から削除されたのかは、全く明らかであろう。なぜなら、この言葉は完全に、パウロが発展段階の「キリスト教」神学に組み込んだ、終末論の考えと矛盾するからである。そこでは、「王国」 が、(身体による)「再臨」(Second Coming)と共に、未来に押しやられてしまっている。それは、(私たちの心の中で)彼への扉を閉じる代わりに遂に開くことによって、今すぐ 「再臨」のイエスと結ばれるという考えを、完全にぼかしているのである。
それゆえ、ルカ 22:19*のこの言葉、 「わたしの記念としてこのように行いなさい。“do this in remembrance of me”」は、私たちの心の中で、今イエスと結び付くことについて意図されたものであって、未来にいつか彼が戻ってくると願って、魔術的に(そして人食いの様に)彼の体を分かち合うことではないのである。(参照T.7.Ⅴ.10

* ルカによる福音書 / 22章 19節
それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」

言い換えれば、その真意は、私たちがイエスを思い出せば、どんな時でも彼は私たちの心の中にいる、ということである。私たちは、彼が私たちのもとへやって来るのを待つ必要はない。彼の方が、私たちが彼のもとへ行くのを待っているのである。パウロの教説の立場は、彼を未来へ押しやり、彼が約束した時に現れないといって彼を非難する、エゴの策略である。

(野口博和訳)