「その日」からのこと ~1~ | ラミーの日記

「その日」からのこと ~1~

暖かく…を通り過ぎて初夏のような陽気がいきなりやって来たので、薄い布団に変えました。

 

バルコニーに置いている鉢植えの葉っぱもワッサワサになったので、テキトーに切り戻しました。

このビオラとガーデンシクラメンは、昨年の11月ごろに母が植えたいというので一緒に買いに行ったものです。

つい水やりを忘れそうになるのですが、なんとか頑張ってくれています。

 

 

 

母が1月3日に亡くなって、もうすぐ4か月になります。

先日4月11日が「百か日」でした。

…って、特に何をするということはありませんでしたが。

 

 

ぼちぼち、自分の備忘録的にも亡くなってから日々の様子を書いていこうかなと思います。

noteにしようかなとか、別の日記にしようかなとか考えたのですが…

生来の面倒くさがりに複数のことができるはずもないので、こちらでぼちぼち書いていこうと思います。

 

先月のうちに母の持ち物の整理がだいたい終わり、

必要な手続きもほぼ終わりました。

 

なので、ちょっとずつ振り返りたいと思います。

 

 

 

 

 

病院での看取りは私一人でした。

正確には病院スタッフの方が10数名いました。

急変を発見してから約2時間、母の蘇生に全力を尽くしてくださいましたが、

「もうこれ以上の蘇生をしても、脳に酸素が行っていない状態が長く続いていますし、ご本人の体を傷つけることになると思います」

…って言われたら、そりゃ「もういいです、停めてください」と言うしかないですよね。

 

「もういいです、停めてください」

 

この言葉を口にするというのは、本当につらいものです。

もうだめだと分かっていても、です。

 

だから、よく「自分には延命措置しないでくれ」と言いますが、よくよく残されるだろう人とお話ししておかないとだめですよ、と言いたいですね。

自分の決断と言葉で、大事な家族の最期を決めるのですから。

ちょっと用法は違いますが「言うは易し、行うは難し」です。

 

 

 

そして、よく最後まで聴覚は残っているといいますが…

「リハビリを頑張るって言うてたのはうそか!」とか

「なんで調子が悪いんやったら、看護師さん呼ばんかったんや!」とか

叱責ばかりだった気がする…いや、一応ありがとうくらいは言うたかなあ…

母は「最期まで叱られてばっかりやった」って思っていそうです。

 

でもその一方で、母からの最期の面と向かってかけてもらった言葉は「ありがとう、ごめんなあ」でした。

これは手術が終わった直後に、数分だけ会えた時に言ってもらいました。

 

 

 

 

そのあと、まあ…ひとしきり泣いていたわけですが…

ふっと「いつまでも泣いててもあかんやろ」と、スイッチが入りました。

 

「葬式せなあかんやん」

 

そうです。

いつまでも泣いているだけでは何も進まないのです。

 

すぐにスマホで葬祭場を検索しました。

コロナ禍もあり、ここ4~5年は「葬儀」とか「法事」と縁遠くなっていたので予備知識がなく…

「家族葬専門の○○」というところから、いわゆる大手のところまで、いろいろ出てきました。

 

いろいろと見ていく中で、自宅から近いところの方がいいかな~と。

母の姉になる伯母の葬儀の時に(といっても20年以上前だけど)、妹になる叔母宅でお風呂を使わせてもらえたりしてよかったな…という記憶があったので、何かと便利なのは家の近くかな?と。

そこで、そこに電話をかけてみることにしましたが、こういうとき、どう話を切り出すのがいいのかわからない(笑)ので、しどろもどろでした。

 

すると代表番号は隣市らしく、すぐに最寄りホールの担当者さんから折り返してくれました。

この担当者さんが非常にいい方で…

最初から最後まで、本当にお世話になりました。

 

電話で亡くなったことを伝えると、さすがプロ。

ドンドン段取りを決めてくださいました。

ホールの空きはありますとのこと。

ただ他の方とのスケジュールの都合で、お迎えに行くのが18時くらいになると言われました。

その時が確か14時前だったので、え!けっこうかかるんだ…と思いましたが、結果的にそのくらいの時間がちょうどよかったです。

とりあえず葬儀場を抑えることができて、連れて帰る段取りができたのでほっとしました。

 

 

そのあとは、母の荷物をまとめ始めました。

もう動かない母に向かって、なんやかんや話しかけながら片付けをしました。

初詣でもらってきた「病気平癒」のお守りが枕元にあったのですが…効き目なかったなあ、なんて言いながら。

 

 

そうしていると、神戸から弟たちが到着しました。

もうアラフィフの弟たちが、ずっと泣いていました。

 

その姿を見たら、なんかこう…

時間が急に40年くらい逆戻りしてね。

長女パワー全開になったというか…

「私がしっかりやらなあかんやん」と、いろいろ覚悟が決まりました。

幾つになっても弟は「弟」なのです、姉にとって。

 

 

その少し後に、母の妹になる叔母がその息子(私の従弟)と一緒に病院に駆けつけてくれました。

正月なので初詣旅行に行っていたそうですが、急遽引き返してくれました。

 

 

 

その間に病院のスタッフのみなさんによる見送る準備が着々と進みます。

「エンゼルケア」をするので、着替えさせたいものがあれば…と言われまして。

下の弟のお嫁ちゃんが喜寿祝にくれた可愛いピンク色のパジャマを着せてもらうことにしました。

 

それとは別に、あまりに急変だったので死後のレントゲンやCTを撮らせてもらっていいか?と聞かれまして、こちらとしてもぜひお願いします・と言い、撮ってもらったり。

 

そういった時間を考慮して17時半以降にお迎えをお願いできますか?と看護師さんから言われたので、18時にお願いをしています・とお伝えしました。

「ああ、なら十分間に合います。ありがとうございます」

 

そうか~

連れて帰ると言っても、やっぱりすぐというわけにいかないんだなあ…

兄弟三人で納得しながら、母のエンゼルケアが終わるのを別室で待っていました。

 

 

 

 

…と。

こんなふうに、ダラダラと取り留めなく書き連ねていくことが、数日に一回発生します(笑)。

私自身の備忘録と、いつか誰かのお役に立てればと思いますので、気が向いたらお付き合いください。

 

 

 

両親の仏壇は現代仏壇なので、大きなお花が入りません。

なので桜ちゃん&檀さんのコーナーを仏壇近くに移動して、そこに「みんなへのお花」としてお供えしています。