今朝は朝からビックリなニュースを知らされて、のスタート。




知り合いが逮捕されていました

昔に何度か顔を合わせたくらいの知り合いだったけど
一緒にご飯も食べたことあるし
お世話にも一応なったし…と
微妙な気持ちでニュースを見ていました。



普通に暮らす普通の人間も
ちょっとしたキッカケであっち側になれる
という現実を思い知らされましたね。



その人の「普通」が
普通ではなかった訳なんですが

その人にとっては「普通」
だったのでしょう。



自分らしく生きる
という事を大切にしようという風潮は以前よりも顕著になってきていると思う


けれど
自分らしく生きることを突き詰めた結果
誰かにとってそれが迷惑だったらどうするの?
と言う問題が立ち上がりますね。



さぁ、これについてはどう考えますか?


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パチンコが好きすぎて経済的に破滅しても
これが自分だからやめられない


女として生きることが私らしいのだから
子供がいても、旦那さんがいても
妻ではなく、女として生きるから彼氏もいる
独身時代の時のお金の使い方も生活スタイルもやめたくない



正しいことは正義だと信じてる
だから間違っている人は自らを正すべき!
間違った行いをする人を軽蔑するし
論破するし必要なら攻撃も戦いもしょうがない
それが私の信念だし正義。



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たとえばこんな風に
逮捕はされなくても自分のなかの
「これぞ私なんだ」 というスタイル、信念が
誰の中にもあると思う。


これを信じているから自分は存在している
自分の選択や発言は
この信念をもとにずっと今までしてきた
のだとしたら、曲げられない決意のようなものかもしれない。



でもね、何を好きか何をどう信じているかは
自由なんだけども


本当に美しい「自分らしく生きる」とは
自分と自分との関係性が愛であるということ


自分との関係が良好でないと
その「自分らしさ」は快楽の代替え品になっている可能性があると思うのです。




自分との関係が良好とは▼

・自分のことが好きだということ
・自分という人間を認めてる(まぁ、色々あるけど基本には結構好きだぜ!と思っている)
・自分の気持ちを大切にしてあげている
・失敗したとしても応援してるスタンス
・ダメ出ししすぎていない
・心が寄り添っている
・ストレスがかからない様に快適な生活が出来るように工夫してあげている


こんな人のことです。



こんな風に自分と向き合って生きていると
ありがとうが自分から溢れてくるのですね

優しくしてくれてありがとう
思いやってくれて嬉しいな
大切にしてくれて幸せだよ

こんな気持ちが自分のなかから自分へと溢れてくるのです。



すると、溢れた嬉しい気持ちと
優しい気持ちと感謝や喜びが自分から滲み出てくるから他人にも自分と接するのと同じように(自分との関係性と同じように)

優しい気持ちで接してあげたくなるし
ありがとうと言う感謝で相手を見られるし
喜びの気持ちで向き合うようになる

のですね。



自分との関係性 = 社会との関係

そのまんまになる。







そうなった自分が

好きなことをしよう
好きに生きよう
自分らしく生きよう

と思ったら、愛を小脇に抱えてる状態で
そう生きようと思っているので


何をどうしても!必ず
周りに喜ばれてしまう生き方になってしまうのです





パチンコ三昧しても人から喜ばれてしまうし
もっとパチンコしやすい環境が整えられてしまうし、応援されてしまうのです。




母ではなく女として生きる道を選んでも
そんなママが素敵だと子供には思われるのです
そんな彼女をもっと幸せにしたい!振り向かせたい、もう一度惚れ込んでもらうぞと旦那さんがさらにメキメキと男らしくカッコ良い旦那さんになってしまうのです。



間違ったことを指摘しても
それは違うよ、ダメだよと人を諭しても
愛を持って言われた人間の言葉には
どう反発しようともその人の愛を感じるから涙を流して感謝されてしまうのです。




そこに愛があるからなのです
相手にどうしてもあなたの愛が伝わってしまうから、感じ取れるから。


愛を向けてくれているとわかる
愛を見せてくれているとわかる
愛で言ってくれているとわかる
愛の仕事をしてくれているんだとわかる


だから愛があれば
何をどう生きても喜ばれてしまう。



逮捕されてしまったということは
愛がないことが相手にバレたということ。

愛のない、相手に優しくない、失礼な態度をとって相手を侮辱して相手を否定した行為だと思われたと言うこと。


相手が、人が、嫌だと迷惑だと困ると思っているのに自分への愛の関係性を無視しているから
そんな人生が普通で当然で当たり前になっている時間が長すぎるから全然気付けないのです。



でも心は、魂は
見ないフリしているけどわかっています
一度たりも、一瞬でも忘れていません

愛を求めています
繋がりたいと願い続けています

でもやっぱり幸せを感じたい
でもやっぱり喜びを感じたい
でもやっぱり楽しいと思いたい…




だから頭は(思考・計算)考えた
自分に向き合わなくても幸せになれるカンタンでテキトーな方法を。


目の前にある快楽に手を伸ばして
その都度、

適度に(テキトーに)幸せ
適度に(テキトーに)喜び
適度に(テキトーに)楽しい

ものを手に取って生きてしまおう

そんな生き方のツケがただまわってきただけ。






自分からの愛が欲しい
自分との関係を愛で満たしたい

私たちはいつだってそれを求めてる
外の世界に愛を求めてるのではなく
誰かに愛して欲しいのでもなく
束の間の気まぐれや快楽で満たしたいのでもなく



自分自身と本当に向き合って愛し合いたい


これだけが願いなのです。





逮捕されて気づく人もいるし
逮捕される前に気づく人もいる


大切なのは逮捕されるかされないかではなく
人生の終わりが来る前に気付くことが出来るのかどうか?


なのですけど。