あけましておめでとうございます。

今年のお正月は去年結婚したばかりとあって、ダーリンの実家に帰りました。

あたたかな思いやりと、美味しいものがたくさんの歓迎の中、

いろいろな感情がわいてきました。

そして東京に戻ってから、彼の子供たちと、私の子供と

彼の家に招いての食事。

楽しかったけど……

何かがざわざわ。


家族の風景には、ただ「喜び」ではない微妙な感情がふと顔を出して

私を戸惑わせます。

私は、まだ子供が幼いころ、アメリカのカウンセリングを学び

カウンセラーの資格をとったこともあって

子供との関係の中では、どんなことも、ただ傾聴するという姿勢が

身についています。

人は、気持ちを誰かに聞いてもらうことができたとき

自分の中から力が出て、前に進む知恵や勇気がわいてきます。

今、子供が岐路に立ち、難しいときだからこそ

私は、ただ「聞く」

しかし、その姿勢が、時に、

我慢をし、気持ちを聞いてもらう機会を持てなかった人たちには

「甘い」と映ってしまうこともある。

大切で大好きな人たちに、私のしていることを誤解されてしまうのは

本当に悲しいこと。


そう思って、ちょっと、うつうつといろんな考えが頭をよぎっていたのですが

ふと、

ああ、私は恐れているのだな、

恐れの基盤の上に立っているのだなという気づきが突然やってきました。


熟年にして再婚、それも子連れ結婚ということが突然おこり

私のことを一心に考えてくれる優しく頼もしいダーリンや

その素敵な子供たち。

そして、私のかけがえのない子供。

仕事と子供、数人の友達しか本当には大切には思えなかった私の人生に

一気に心から慈しみ

大切にしたいものが増えたのでした。

失ったらどうしよう、嫌われたらいやだな、

私の心は意識されない、そんな思いがいつの間にかあった。

それで、ぎゅっと握りしめるようにしていた。

これは、実父が余命宣告を受けた幼少時の体験と無関係ではないかもしれません。


そんなこんなことに気づいたとき、

私は、信頼に立ち戻ろう、

誰かが私を嫌ったり、怒ったりしても、

私は、もう、このまんまの私でしかない。

「母」になった途端、「愚かな」という形容詞がついてしまうほどに

おろおろ、あたふたしてしまう。

いつもは、降るようにくるインスピレーションもなくなってしまう。

それでいいではないの。

それが私。

けっこう仕事している「脚本家」という肩書や

いい女ぶりたい「志ずか」さんや、

ダーリンに愛されてる幸せいっぱい「奥さん」や

そんな、ちょっと「仮面」みたいなもん、ぜ~んぶぬいでしまおう。

で、いいじゃないの!

何が悪い!

文句あっか!(笑)

愚かでカッコ悪くて何が悪い!

私は私じゃ!

ん、今年はこれで行こう!