今まで、私は、「家族」とか「親戚」とか、そういうものにとらわれない

生き方をしてきて、それで私の子供はさびしい思いをしたことがあったようです。

それでも、「家族だからこそ」とか「親戚だから」みたいなしがらみの中に

生きることができず……というよりも、

自分で「在る」時間が長くなると、

どの人も等しく大切で、「家族」だからといって特別な感じもなくなっていきました。

今現在も「夫だからといって毎日一緒にいなくてもいいんじゃない?」

「その時、会いたい人と一緒にいる」そういう選択で

別居婚を選択しています。


しかし、私のダーリンは、「家族」を一番大切に生きてきた人。

その通り、私のことを本当に大切にしてくれます。

彼の幸せを願う私は、無意識でほんの少しだけ

あわせていたのかな……

なんか「家族だから」という「枠」を自分でつくり

その中に自分を押し込んでいた数日だった気がします。

今、ひいたズームでみると「家族ごっこ」をしていた感じ。

とても、あたたかで、優しく、気遣いしあい、

特別な人をつくりあう。

それはとても素敵なこと。


だけど、ここ数日、なんか変だぞというサインがきまくり、

一瞬外側の状況や人のせいにしていたのですが、

昨日の夜、ひとりの時間を過ごす中で

大きな気づきがやってきました。

「家族ごっこ」

家族だからといって、特別なつながりを感じて遊ぶ楽しみは

何か懐かしさもありながら

同時に、私には少し息苦しい、

その息苦しさを結婚以降なんだろう?と内観していたのですが、

大きな意識に触れて、その意識そのもので生きようとすると

地球にしかないような

「血縁」や「婚姻」で結ばれた関係は

ちょっと、もうそぐわないものなのかも……と思います。


すべての人、もの、あらゆる意識と

つながっていることを脈々と感じる意識では

もっとダイナミックなつながりを感じていて

「家族」はちょっと狭い枠組みなのかもしれません。


そんなことに気づいたとき

私には、大きな呼吸が入り

ほーっと肩の力が抜けました。


だからといって

家族を大切にしないでいい、ということではありません。


だけど、

もっと、自由でいい、

特別をつくらなくていい。


あるころから

お金や社会の成功や立場で、人間の価値になんの上下がないと

はっきり気づいたように、

家族だからとか、親戚だからということで

特別さをマークする必要もないのです。


今、会いたい人と

今、共鳴する人と、

今、出会う。


そう思ったとき、今日会う親友とのランデブーが

今まで以上に楽しみで、大切なものになってきました。


久しぶりに、「うつうつとした」ピンチでしたが

ピンチはチャンス!

絶対に大きなギフトをゲットするのが旺季流生き方。

すこんと

抜けた意識は、今日の青空のように青く広く深いです