タイトルは曹植の『文帝誄』から。

皇帝(曹丕)の身は病没しても、天の恵みは永遠に

という感じの意味です。

五月十七日。

今日は、わたしが時を越えて想いを馳せる文帝・曹子桓様の、黄初七年五月丁巳から1784回目の命日です。
(厳密には当時は四分暦という暦なのでズレてますけどね)

今も首陽山で安らかに眠っているんでしょうか。
ちゃんとした墓所は詳らかになってないですが、心穏やかに美味しい物を食べて文学に興じることが好きだった曹丕が、 肉体からの解放を以てやっと安寧を手に入れられたのなら、そっといつか首陽山を照らす太陽と星と月の光を遠くから見られたらそれでいいと思えます。
墓所荒されてなくて良かった。本人が死に際して一番恐れていたことみたいだし。


肉体は滅びても文章は永遠に残ると彼が言った通り、当時の文献は一部だけどしっかり残っていて、『魏書』『三国志演義』、その他小説などを読んだだけでは知り得なかった曹丕の感情の機微を汲み取る事ができました。

その言葉の端々が大好きになりました。

評価は後の歴史家に委ねる、とも彼は言っています。
私は歴史家にはなれないけど、もっともっと勉強して、曹丕が残した詩賦を、論文を伝えたい。
冷酷で陰険なんかじゃ断じてないんです。
先の読める頭のいい人だったから、それ故にきっと人一倍不安や孤独を感じてたように見えるけど。
曹丕の作品と同時に、曹植の『文帝誄』も三国志好きな人にぜひ読んでほしい。
私は涙無くしては読めません。
世間体のための形式的な誄にしては出来過ぎてると思う。
もし死後の世界があったとしたら―得意げな弟と皮肉りながらも照れる兄の微笑ましい風景が浮かびます。


・・・我ながら気持ち悪いですね(笑)

全く何のラブレターかと(笑)