勉強のため、王粲の「登楼賦」に関する論文を中国語で読んでいるので、ちょこっとメモ書き!

前回唐突に王粲の「七哀詩」を持ち出したのもこの関係で思い出したからです。

論題としては、「登楼賦」の「楼」とはどこの城のものなのかということです。

という事で、資料用に拾ってきた書き下しを貼りっ。

原文はネットでは見当たらなかったです。。

まぁ、論文自体は内容理解だから、原文なくても何とかなるんだけど、原文の韻の響きが好きなのもあるのでブログとして物足りない。

本には付録として載っているんですが(笑)


茲の楼に登りて以て四に望み、聊か暇日以て憂いを銷す。斯の宇の処る所を覧るに、実に顕敞として仇寡なし。清漳の通浦を挟み、曲沮の長洲に倚る。墳衍の広陸に背き、皐隰の沃流に臨む。北のかた陶牧を彌り、西のかた昭丘に接す。華実野を蔽い、黍稷疇に盈つ。信に美なりと雖も吾が土に非ず、曾ち何ぞ以て少く留まるに足らん。

紛濁に遭いて遷り逝き、漫として紀を踰えて以て今に迄る。情眷眷として帰らんことを懐う、孰か憂思の任う可き。軒檻に憑りて以て遥かに望み、北風に向かいて襟を開く。平原遠くして目を極め、荊山の高岑に蔽わる。路逶迆として脩く迥く、川既に漾として済り深し。旧郷の壅隔せるを悲しみ、涕横に墜ちて禁ぜず。昔尼父の陳に在りしに、帰らんかの歎音有り。鍾儀幽われて楚奏し、荘舃顕れて越吟す。人情土を懐うに同じ、豈に窮達して心を異にせんや。

日月の逾え邁くを惟い、河の清むを俟つに其れ未だ極らず。冀わくは王道の一たび平らかなりて、高衢を仮りて力を騁せんことを。匏瓜の徒らに懸からんことを懼れ、井渫の食らわれざらんことを畏る。歩みて棲遅して以て徙倚し、白日忽として其れ将に匿れんとす。風蕭瑟として並び興り、天惨惨として色無し。獣狂顧して以て群れを求め、鳥相鳴きて翼を挙ぐ。原野闃として其れ人無く、征夫行きて未だ息まず。心悽愴として以て感発し、意忉怛として憯惻たり。堦除に循いて下り降り、気胸臆に交憤す。夜参半までにして寐ねられず、悵として盤桓として以て反側す。


読んでいる本は「古当阳」という、歴史に残る名所について書いた本です。

三国志系のオフ会に参加した時に頂いたものです♪

三国志に関係ありそうなところから読んでいっているのですが、王粲の以外だと関羽墓、長阪・・・この辺はいいとして、びっくりな事に周倉の墓まで載っているんです!

周倉って・・・実在したの?(爆)

王粲のくだり読み終わったらこっちも熟読しよう。

中国語が全くと言っていいほどわからない状態から始め、読み途中であれこれ語るわけにはいかないのですが、備忘録的にメモっときます。

モチーフになった城として考えられるのは四箇所。


1:当陽城

2:麦城

3:江陵城

4:襄陽城


「荊州記」には当陽城とある。→後の論で否定

「水経注・漳水」には麦城?

「文選注」には江陵城とある。

明王世貞は襄陽と言っている。


本文に記された景色の位置関係から、麦城とする説が有力みたいですが、一番問題なのはこの国・・・大事な名所を簡単に移転するから(苦笑)

さくら剛さんの「三国志男」を読んでいたら、「劉備が亡くなった場所」が移転されそうになってたとか書いてあって愕然としました。

名所の意味ないじゃん!!

「時代遡って瀕死の劉備ごと移動させろ」と書いてありましたが、もっともですわ(苦笑)

なので王粲が登った城と、今その名前がついている城が違うかも・・・なんてね、言い出したらキリが無いんですけど。

満田先生と飲んでた時、「曹丕と司馬懿の墓の場所も実はわかってるらしい」とお聞きしたので、「首陽山ですよね?」と聞き返したら「当時はね」という事。

今は山の中とは限らないみたいです。。

目星をつけてもいいけど、曹丕の墓は掘り起こさないでほしいです。

漫画で、「人は二度死ぬ」という言葉を見かけたことがあります。

確か、二度目の「死」は忘れられた時、と書いてあった気がしますが、曹丕にとっては安らかな眠りを妨げられた時なんです。

墓を暴かれるのは、死してなお殺されるようなものだと。

ある意味、沢山残した文章の中で思想が生きているから、曹丕の認識では自分が「忘れられる」ことはないと思ってそうですね。