初めて三国志学会に行ってきました!
論文集ほしさに会員になっちゃいました。
試しに見せてもらった時、1ページ目から「曹植」というワードがあったので瞬殺されました。
詩聖ってそんな魔力持ってるんだね。
これから三国志学会会員という肩書きは名乗れますね(笑)
さてと、講演の方なのですが、とにかく喋る方も聴く方もレベルが高い!!
そして服装も割とフォーマル(笑)
私は全く知らなかったので一応、ビジネスカジュアル的なファッションで行ったのでセーフ・・・だったのかしら。
普段の三国志イベントの時のノリでいたら確実についていけません。
自ずと気合いが入りますね~。
講演、お一人目は蜀の南征とシルクロードについて。
地理や史学的な分野に疎い私は普通にシルクロード=交易路だと思ってました。
交易路もそうなんですけど、元は宗教や軍事や民族交流のための道だったそう。
そして、曹丕が好んだ葡萄とかライチとか梨も輸入品ですからね、結局文学作品に関わる文化的背景のために、シルクロードについては網羅しておきたいところでした。
地理が苦手なので、難しかったですけど。。
私が勉強不足すぎましたっ。
お二人目は日本文学が専門の方で、「太平記」と三国志の比較。
実は私も元は大学で日本文学を専攻していたので、話がすっと入ってきました。
説明も殆ど前後することなく分かりやすいし、レジュメに書いてあるところと口頭で言うところの区別もはっきりしていたため、補足メモをいっぱい取ったからか凄く印象に残ってます。
「太平記」と三国志は時代背景が似てる時期のものだから、「太平記」の中に三国志の喩えがいっぱい出てくる。
更に、「太平記」には日本文学特有の美しい表現が用いられているので、その表現が今度は「通俗三国志」に現れている・・・という相互作用的なお話でした。
あと一年半早く聞きたかった・・・こういう視点なら無理やり卒論のテーマにできたかも知れないのに。。
三人目の方は異姓養子の劉封と同姓養子の関平(演義)の比較。
二冊の異なる演義本の表現を比較して、どちらが良いものとして書かれているかが論じられていました。
この二人の比較の場合だと、明らかに異姓養子は悪だとされ、同姓養子は良いものとされているのが分かりました。
親に対する劉封の不忠と関平の忠義が対照的に描かれていたからです。
もし、めちゃめちゃ親孝行な異姓養子がいたとしたらどうなっていたんだろう・・・と素朴な疑問が浮かびましたが、質疑応答タイムで質問や意見を言う方のクオリティーにも圧倒され言えなかった・・・(笑)
四人目の方は劉楨をメインに、梁の時代の江淹という人が建安詩人を模した詩に関する論でした。
実際に模されているのは曹丕、曹植、劉楨、王粲の4人の詩です。
江淹なりきり版(笑)ももちろん目を通したことはあるので、改めて読んでみて色々思うところが。
これについてはまた別記事で書いてみたいなぁ。
とりあえず、劉楨の模擬作品は割とそれっぽいと思うのですが、曹植は全然曹植っぽくないよね~とか。
建安詩人の公宴シリーズが大好きな(というか元は曹丕と曹植の仲良し説が窺えたため)私としては、宴が建安文学の中心という意見は嬉しかったですし、もっともだと思いました。
建安文学サロンの人々がこうして一同に会して、名文を次々に残していったんでしょうね。
絶対、散逸しちゃってるものもまだまだ沢山あるはず。
建安文学全体について、絶望の言葉の繋がりから生きる力が見出せるという意見も同感です。
だからこそ、曹植の晩年の不遇な詩が評価されたのではないでしょうか。
あと、興味深かった資料が載ってまして。
伊藤正文先生の「建安詩人とその伝統」からなのですが、「より知的な王粲に対してより情的な劉楨」と。
私が以前、曹丕の典論における文人評をまとめた限りだと、書かれた順番と表現的にも劉楨は応瑒と対比されていたように思うので。
というか典論だと王粲は賦が上手いとしか書かれてないので(笑)判断材料不十分だとして、この方程式で行くと王粲と応瑒は似ているのか?など疑問が出てくるわけです。
そもそも知的と感じるか情的と感じるかというの自体、個人の捉え方による気もしますが。
先日の「七哀詩」(王粲)なんかだいぶ扇情的に感じますしね。
っと、脱線しまくった!!(笑)
この発表の時私はやっと勇気を出して質問ができました。
前に江淹版の「芙蓉池作」(江淹版だと「遊宴」というタイトル)を目にしていて、その後でたまたま劉楨(こっちは本家)の「公讌」をブログに載せた時にちょっと「あれ??」と思ったことがあったんです。
それが、レジュメに「遊宴」全文が載っていたことで確信に変わりました。
「遊宴」と劉楨の「公讌」で、「月出照園中」のフレーズが全く一緒なんです!
こっそり携帯からこのブログ開いて、劉楨の過去記事探して確認しちゃいました。
情景描写の定型なのかな?とか思いつつ、何か関係あるんですかってお尋ねしました。
そしたら、公宴詩は同じ寿ぎの表現をすることが多いとご回答をいただけました。
五文字全部同じなのも珍しくないんだって。
今までは確かに表現似てるな~とは思いつつ、例の銅雀台のアレしか把握してなかったので同じ景色見て詠んでるんだからそりゃそうか、とスルーしてた自分恥ずかしい(苦笑)
今更ながらすごく貴重な資料を得られたと思います!
・・・つーか、三曹建安七子ネタになった瞬間感想長っ。
殆ど脱線で申し訳ない(苦笑)
最後の方は人物評論における「清」という文字の使われ方について。
時間が押してたのか質疑応答タイムが無かったので、ここで書いてすっきりします、わかる方いたらコメントで教えてください(笑)
と言っても、個人的な興味すぎてあの場で質問するのは申し訳ない内容なんだけどね。
はい、人物=三曹建安七子の人達に限った疑問です。
文学論の「清」字という段落があり、陸機の「文賦」や鐘嶸の「詩品」など、文学評論の文中に限って提示してたのですが、これらの作中に名前が無いはずのない三曹建安七子はここでは一人も挙げられていない。
つまり、「清」と評されることがなかったと言えます。
そもそも文学論を持ってくる時に不可欠と思われる典論(論文)も出典すらない。
典論論文だと見た感じ「気之清濁有体」とは言っていても、その前の人物評では確かに誰の気が清だとか濁だとかは言ってないですね。
この時代、「清」は重視されなかったのか、それとも単に三曹建安七子の中に「清」と表せる人がいなかっただけのか。
なぜ??
というのが疑問です。
そもそも「清」の定義っていうのが難しいですが、レジュメの最後に「清」字との相性という段落があって、そこ見てると少し見えてきました。
(「清流派」「清談」などは別枠。)
相性がいいとされる字だけリストアップしてみます。
淡・苦・寒・明・新・雅・長・易・痩・軟・賢・薄・白・陽・細・貴・貧・軽・弱・浅・虚
これをひっくるめたのが「清」っていう字!
って意味わからんですね、つまり、上のリストの漢字のどれかに置き換えが可能、ってコトなんだと思います。
そう考えると・・・例えば「雅」な人なんかは居てもおかしくない気がするんですよね。
実際、典論の中で曹丕も「奏議宜雅」と言っています。
雅やかな奏議をしたと認められた人・・・全然いなかったのかな?
他の字に関しても言えるけど。
今更なんですが、このブログ学会行ってない人からしたら意味不明じゃないですか?(笑)
こちらにはレジュメがあるんでいいですけど、内容・・・伝わってない悪寒。。