三国志学会でゲットした論文集です☆

最も私ホイホイだったのが、一番最初の講演「身を焼く曹植」でした。

京都大学大学院教授の川合康三先生という方のものです。

京大って三国志系の研究盛んみたいですね~関東住みなので行けませんが、見学したい。。


さて、曹植というだけでもう十分私の興味をそそるのですが、文学と思想に関する論文だったので、気付いたら重要そうなところに線を引きながらしっかり熟読してしまいました(爆)


曹植の詩には、「秋には野火に随いて燔かれん」(「吁嗟篇」)など、焼死の描写が表われているのが挙げられています。

それ以前の時代にも焼死の話はありますが、自分自身を焼くというシチュエーションは存在していないそうです。

こうした発想の起源として、曹植は仏教に影響されていたのではないかという見解も引かれています。

『中国仏教史』(鎌田茂雄著)にそんな記述もあるとか。

ですが、この仮説は根拠が不十分で、仏教の立場から導かれた考察である可能性があるため、否定されています。

ここで、「自滅への欲求」という言葉が出てきます。

更にフロイトの心理学も持ち出し、「死の欲動」「他者への攻撃性が行き場をなくした結果の転化」とも言われています。


ここから私の感想になっていきますが、仏教の影響という説はやはり頷きがたいところがありますね。

明確に仏教のことを曹植自身が遺していない、という指摘も勿論そうですし、仏教思想の特性も関係してくると思います。

仏教が呈する「火葬」は決してマイナスイメージのものではありません。

「輪廻転生」という理念が根底にあって、身体を焼き払う事で魂を開放させ、次の輪廻に備えさせるわけです。

もし曹植が仏教を信じていて焼身願望を語ったとなれば、来世に期待をかけているという事になりますよね。

辞世の詩ならともかく、中央へ戻る事を何度も訴え続けていた曹植は、来世に賭けて現世を諦めるような思考に至ったでしょうか。

私は曹植が詠む「火」は仏教に於けるような開放の火ではなく、ただ単純に戦火だと思います。

彼の戦地に赴きたい願望が如何ほどかは、晩年の詩を読めば明らかです。

戦場で死ぬなら本懐だと強く思っていたのが伺えます。

僻地でただ寂しく生きていくならば、戦火に焼かれて死んだ方がいい!と。

第三者からしたら、「ちょっと落ち着こうかw」と言いたくなる発想ですが、そこで上述されている「他者への攻撃性が行き場をなくした結果の転化」という概念が説明してくれるわけです。

誰に憤りをぶつけたらいいか分からないんです。

もしかしたら曹丕を憎んだかも知れない。

それでも曹丕に手を上げるまでには至れない。

文学というのは今も昔も少なからずカタルシス的要素を持ちます。

同講演の中で、文学の特性として「内面の表出、吐露」「内面を隠蔽するためという逆説的な役割」と二点挙げられています。

ここで、「責躬詩」「応詔詩」の二詩が後者だと言われています。

どちらも曹丕に対して宛てたもの、しかも若年期のように遊びで詠み合ったものではなく、政治的要素の関わる謝罪と嘆願の文です。

今風に言えばフォーマルなビジネス文書に近いですね。

それも相当切羽詰まった時の(苦笑)

社会人ならば共感しやすいかも知れませんが、こういったものであれば普通は後者になりますよね。

それに引き換え、焼身願望が描かれた「吁嗟篇」は特に誰かに宛てたものでもなければ、いたって自由に詠まれた作品です。

ゆえに、前者の特性がありありと表われているんです。

自滅への欲求」「死の欲動」「他者への攻撃性が行き場をなくした結果の転化」どれも確かに曹植の心理の中にあったものには変わりありませんが、ここでもう一つ疑問が生じました。

上記の心理から導かれたものが全てならば、服毒や飛び降り自殺や切腹じゃだめなのか?という疑問です。

どうして火にこだわったのでしょう。

憶測の域に過ぎませんが、私は儒教への反抗心が根底にあったのではないかと考えました。

儒教では身を焼くなどとんでもないこと、死してなお火葬は厳禁でした。

曹操や曹丕の薄葬令を見ていると「この人達ほんとに儒教知ってる?w」と思う有様ですが、そこはまぁ今は置いといて。

自ら身を焼く=儒教を反故する=儒教が主張する兄弟や家族の繋がりをも反故する、という方程式が導かれていたとしたら。

曹植なりの、曹丕への反抗だったのかも知れません。

私はこの兄弟仲は悪くなかったと主張していますが、だからといって曹植が聖人君子のように曹丕の指示を全て受け入れ憎まず恨まずだったとは到底思っていません。人間だもの。