第二部、渡邉義浩先生の講演です!
実際の講演はレジュメがあったので、ここで書くだけじゃ伝わりにくいかも知れませんが、かなり面白い内容でした。
テーマは、曹操は英雄か姦雄か。
結論からすると、英雄という言葉では表しきれない。
「姦」という字は手段を表し、「雄」という字は力を表す。
つまり、やり型は間違っているのにその勢力は無視できないという意味で、姦雄という言葉が曹操に当てはまるという事でした。
ちなみに許劭が曹操を、「治世の能臣、乱世の姦雄」と評価していますが、この言い方にもワケがあって、治世と乱世がそれぞれプラスイメージ←→マイナスイメージの対句に、能臣と姦雄がそれぞれ同じく対句になっています。
ですが、仮にこの肩書が「乱世の英雄」だったら、能臣と英雄ではプラスイメージ同士で対句にならない。
こんな文学的な仕掛けも指摘されていました。
乱世の姦雄曹操のキーワードとして第一に、猛政への指向というのが挙げられていました。
橋玄を自分の理想と位置付け、徹底的に悪を罰する!という儒教の理念である猛政をすることによって、法体系の基礎を作り直したということです。
そういえば、ここは講演に無かった部分ですが、曹操の詩の中にこれを裏付けるような作品があります。
「度關山」という楽府(雑言)なのですが、「無普赦贖」(むやみに赦免や贖罪は行わない-ここでいう贖罪は単に償う意ではなく金品に物を言わせて赦すこと)と言っており、罰すると決めたら罰する法治主義的な考えが窺えます。
この詩は、曹操の理想とする考えが分かりやすく出ていて面白い、というか曹操を探る上でだいぶ大きなヒントになり得ると思います。
ちなみに、「對酒」という詩の中でも政治の在り方を述べています。
今回の講演のレポートでも後に触れますが、曹操は文学を政治的主張の場としても大いに活用していた事は間違いないでしょう。
話を講義に戻しますが、次に挙げられたのは青州兵の話でした。
普通、降伏した軍はひとつに置いておかずに分けるものなのに、彼らは纏まったままでした。
しかも、曹操が死ぬとすんなり故郷に帰ってしまい、曹丕も何も止めなかった。
以上の不自然さから、曹操と青州兵の間には何か密約があったんじゃないか、というお話しでした。
わしだけに仕えればよし!という事ですね。
ここで五斗米道のケースが引き合いに出されます。
曹操が五斗米道の信者を保護したのは、貸しを作るためって事ですね。
五斗米道は、儒教の守られている漢を滅ぼし、新たな国家を樹立する際の宗教的正統性を保証しようとしたとありました。
青州兵も同じような感じで、曹操の天下統一に協力させる密約があったとしています。
うん、渡邉先生の説だと、曹丕は儒教の恩恵を受けていて(長男が後継ぎになるのは儒教の考えで、皇帝に推してくれたのも陳羣とかの儒者だから)儒教に帰らざるを得なかったという風だから、曹丕即位後に青州兵が去ったことも辻褄が合うかも。
次に、屯田制のこと。
軍人じゃない一般の人に屯田させたのは、社会が不安定な理由は流民が生活できないためと見たから。
黄巾が暴れて荒れた土地をうまく整備して、流民に与えて仕事をさせ、自分もちゃっかり税として貰う、と。
牛や農具を持っていない人からはレンタル料も取ってましたからね(笑)
従来の、豪族の土地所有を制限してその土地を貧民に分け与えるという方法は失敗し続けてきたのに、曹操の屯田制は見事に成功して国の経済基盤を作りました。
使えないもの、要らないものをも利用し勝利への重要な鍵と変える・・・そういえば小説ですが、PHP文庫から出ている「荀イク」という小説(文字通り荀イクが主人公)で、イナゴが大量発生した被害を逆手に取ってイナゴの佃煮(・・・らしきもの)を作って兵士の食糧にし、食糧不足を補ったというエピソードを見ました。
実際にあったことかは分かりませんが、曹操の性格上、有り得たかも知れませんね。
たかが小説と言えど、火のないところに煙は立たないわけで、曹操の臨機応変さという点ではおかしくないと思いました。
そしていよいよ、私が最も聞きたかった曹操的「文学」の位置付けについて。
儒教VS文学、としたかったんですかね、曹操は。
漢魏革命に向けて、と題されたこのパートでは、儒教を相対化させるために選んだ新しい価値観、文化が文学であったと述べられています。
漢を滅ぼす基盤としようとしたわけですね。
唯才主義、つまり前科持ちでも才能あれば重用!というまさに反儒教的な具体例も挙げられていました。
先に私が勝手に挙げた「度關山」がまさに曹操的文学の形なのでしょう。
官僚登用制度にまで文学を入れてきます。
試験科目に作詩ができ、後の時代に李白や杜甫が名作をたくさん遺したのも、詩が好きだったのも勿論あるけど結局は科挙の試験勉強だったそうです。
ここでドラマ三国の「短歌行」の場面を観ました。
歌うというより音楽に合わせて詠んでいる感じ。
ちなみに、鹿鳴館の名前の由来はこの詩だという豆知識も頂きました。
言わずもがな「短歌行」は素晴らしい人材来ーい!という詩ですよね。(こんな纏め方ですみません・・・そろそろ眠ry)
同じようなことが、先にちらっとタイトルだけ挙げた「對酒」にも出てきます。
まずこのタイトルからして、「短歌行」の冒頭を彷彿とさせますが。
「以黜陟幽明」とあり、私はここを「人材の善し悪しを判断する」と訳したのですが、伊藤正文先生の訳では「人材を登用し 無能力者を追放し」となっていました。
この訳に従えば、ここにも唯才主義が主張されていることになります。
詩才のある曹植が可愛がられたのも、単純に曹操は詩の心がある子が好きだったという理由だけじゃないことが見えてきます。
もし曹植を後継にしたら、長男じゃないこと然り、選んだ理由が文学ということ然り、儒教への完全なる対抗ということになりますね。
結局、儒者である「名士」達と袂を分かつのは賢明でないとの判断により、曹丕が後継になったとされていましたが。
とりあえず今回は講演で触れられた部分を、脱線しつつもざっと纏めてみただけですが、儒教と文学との関係を見ていくのは不可欠そうです。
まず、この当時の儒教が何であるか、しっかり押さえなければ。
漢が儒教によって保護されていた、というくらい力を持っていた宗教をもっと詳しく知りたい。