…を、拝読しました☆

三国志研究第六号、ずいぶん前に届いていたんだけど、忙しくて読めていなかったのでやっと。

やっぱり、真っ先に漢詩系の論考に手が伸びちゃいますね。

観点がすごく面白くて、一気に読んでしまいました。

どうして文学は時代も地域も違う人の心に響くことがあるのか、という問題提起から始まり、劉楨の詩を模した約300年後の作品について論じていってるんです。

この江淹って人、曹丕や曹植も真似てます。

私も彼らの文学に感銘を受け、三国志の世界にここまでどっぷり浸かった身ではありますが、彼らを模して詩を書こうなどと思い立ったことはなかったですね。

音楽なんかだとよく、インスパイアなどといって、先駆者の誰かに似せた(或いは似てしまう)作品を作る方もいますけどね。

ただ、多くの場合は二番煎じになってしまって結局本家より見劣りしてしまうものですが。

この論考では数々の劉楨に関するエピソードとともに彼の性格が分析されていて、単なるインスパイアではなく緻密な理解のもとに模擬されているのが分かりました。

こんな読み方もあるんだな、と、個人的に驚きましたね。

文学を研究する人なら、確かにその作者についての文献はくまなく読んで、性格が窺えそうなエピソードを探るものだけれど、それを利用して(全てではないけど)更に作品を作るって発想もあるんですね。

かと言って私は詩なんか詠めませんけど(笑)

建安詩人の模擬詩を作ったのは江淹だけなんでしょうか?

曹植の「七歩詩」も一応、それにあたるのかな。

約1800年後の現代に詠める方が出てきたら面白いですね。

文中に、文学は変更され続けるとあったけど、確かに、私が好きで読んでいる漢詩だって当時の人が詠んだそれそのものではないかもしれない。

自分の解釈も入っているし、少なからず色々な本の著者や研究者の先生の考えも伺った中で読んでいるわけだから。

意図そのものに齟齬が生じているかもしれない。

それでも、解釈する人がいなければ文学は文学たり得ないわけだし、いいんじゃないかなとも思う。

寧ろ、研究者は誰もしたことがない自分オリジナルの解釈をしていかないといけないんだよね。

私にしかできない解釈、私にしか書けない文のスタイルも、あるのかな?