大変なことに気付きました。

前回のブログで、文帝誄はいつかの命日に引いてきたと書きましたが、ページ内検索したところタイトルに一行だけ引用しただけで全文は載せてないことが発覚(笑)

もうね、自分で過去に何書いたか覚えてないのバレバレですね。曹丕の短歌行の話といい毎度すみませんね。

ちょうどいいので来月、今度は現代版(西暦)の命日に載せるかーとも思ったのですが、一ヶ月以上後の予定なんて読めん!ということで、思い立ったが吉日、文帝誄にちょっと触れてみたいと思います。

なっがいので本文および訳はぐぐって引いてきました。多分以前はこれを訳そうとして心折れたんだと思う。



魏陳王曹植文帝誄曰.
天震地駭.崩山隕霜.陽精薄景.五緯錯行.哀殊喪考.思慕過唐.擗踴郊野.仰愬穹蒼.
考諸先紀.尋之哲言.生若浮寄.徳貴長伝.朝聞夕逝.死志所存.皇雖殪没.天禄永延.
何以述徳.表之素旃.何以詠功.宣之管絃.乃作誄曰.元光幽昧.道究運遷.乾迴暦数.
簡聖授賢.乃眷大行.属以黎元.龍飛践祚.合契上玄.五行定紀.改号革年.明明赫赫.
授命自天.風偃物化.徳以礼宣.詳惟聖質.岐嶷幼齢.研機六典.学不過庭.潜心無内.
抗志高明.才秀藻朗.如玉如瑩.聴察無響.視睹未形.其剛如金.其勁如瓊.如冰之潔.
如砥之平.爵功無重.戮違無軽.心鏡万機.鑑照下情.宅土之中.率民以漸.道義是図.
弗営厥険.六合通同.斉契共検.導下以純.民由樸倹.紼冕崇麗.衡紞惟新.尊肅礼容.
瞻之若神.方牧妙挙.欽於恤民.虎将荷節.鎮彼四隣.朱旗所勦.九壤披震.疇克不若.
孰敢不臣.懸旌海表.万里無塵.回回凱風.祁祁甘雨.稼惟歳豊.登我稷黍.家佩恵君.
戸蒙慈父.在位七載.九功仍挙.将承太和.絶跡三五.宜作物師.長為神主.壽終金石.
等算東父.如何奄忽.摧身后土.俾我焭焭.靡瞻靡顧.嗟嗟皇穹.胡寧忍予.明鑑吉凶.体達存亡.
深垂典制.申之嗣皇.聖上虔奉.是順是将.乃啓玄宇.基于首陽.擬跡穀林.追堯纂唐.
合山同阪.不樹不疆.塗車蒭霊.珠玉靡蔵.百神警侍.賓于幽堂.於是侯大隧之致功.陳元辰之叔禎.
潜華体於梓宮.憑正殿以居霊.悼晏駕之既俟.感容車之速征.
浮飛魂於軽霄.就黄墟以蔵形.背三光之昭晰.帰窀穸之冥冥.嗟一往之不返.痛閟闥之長扃.



魏の陳王曹植は、文帝のご崩御を悼んで申し上げます。
 

1:天はふるえ地はおどろき、山は崩れ霜がおります。日の光は薄れ、
水・金・火・木・土の五星は錯行します。その悲しみは父を亡くしたほどに特別に大きく、
思慕の情はかつての偉大な堯の都の唐を過ぎるほどの大きさです。
わたしは郊外の平原で、手で胸を打ち、地を足で蹴って嘆き、蒼穹を仰いではうったえます。


2:先人が記したものを鑑み、その哲学的な言葉に申しますには、生命とは定めがなく、
仮に身を寄せるが如きもので、ただ貴い徳だけが長く伝わると存じます。
孔子は、君子は朝に人の道を聞けたならば、その夕に没しても惜しくはないと言います。
死んでも志は残ります。皇帝といえども病に倒れ没しますが、その天の恵みは永遠につづきます。
何をもって陛下のその徳を述べ、それを白い旗にあらわし、何をもってその功績をうたい、
それを音楽に宣べればよいのでしょう。


3:すなわち、ここに亡き陛下を悼んで誄を作って申しあげますには、
元来、この世は薄ぼんやりとしていたものを、陛下は道をきわめ良いことをもたらし、
天の月日の巡る仕組みを明らかにし、その言葉をえらんで賢い者に授けました。
ここに陛下のりっぱな事業を顧み、民衆としてこれに従います。


4:陛下は階段を登ってご即位なさってから、人の最も貴いあり方に合致し、
天地をつくる木・火・土・金・水の五つの元素のあり方を定め、
年号を黄初と改号して年をあらため、明らかにあかあかと輝き、天命を授けられておりました。
風習をやめさせて、徳をもって礼を宣べられました。
尊い考えに詳しく、ご幼少のころから優秀さは飛びぬけてあられました。
治典・礼典・教典・政典・刑典・事典の六典をよく知って究め、
その学びは政務にとどまることがございません。
心を謙虚にしてその内を無にし、志は高明を願っていらっしゃいました。
才は秀で、その文章のお言葉は朗らかで、まるで玉の如く透き通った石の如くであられ、
音のないものを聞いて察し、見えないものをご覧になられておりました。
その武勇は金のごとく、その強さは美しい石のようで、まるで氷の潔いがごとく、砥石の平らなようでした。
功をさずけるに重すぎることはなく、誤りを罰するに軽すぎることがなく、
鏡のように澄みきったお心はどんなときにも、しもじもの情を汲んで照らしてくださいました。
人が住む土地の中で、人を感化して率い、道義を大切になさいました。
その険しさを苦労とせず、天地と四方の六合を同じく通じて治められました。
皆を平等に大切にし、共に考えとりしらべ、しもじもを導いて良きものにし、
民衆にもまさって倹約し、印の紐をもって(皇帝として)冤罪をあきらかにし、
冠の垂れ紐をもって(皇帝として)度量衡を新しく改められました。
礼儀正しさを尊び慎み深いことは、まるで神のようであらせられました。
地方の長官を絶妙に推挙し、民衆をあわれみいつくしまれました。
勇猛な将軍たちは陛下の旗印を荷い、四方の隣国を鎮めました。
陛下の朱旗がほろぼすいきおいに、中国の九つすべての州は震えさせられました。
どこに陛下に従わない土地があったでしょうか。どこに敢えて陛下の臣たらない者がいたでしょうか。
その旗を水面にかかげれば、万里には行く手を阻む塵ひとつなく、
恵み深い初夏の南風はかがやくように吹き、慈しみ深い雨はおおいに降りそそぎます。
作物は毎年豊作で、もちきびとうるちきびが我々の食卓にのぼりました。
家々は君主の恵みをおび、戸々は慈父の恩恵におおわれ、それをこうむりました。
七戴にわたって在位され、九つの功績は挙げるにいとまがありません。
まさにたくさんの平和をたまわり、満月のごとく欠けたるものはございません。
よく作物をよくつかさどられ、長く天地の神をまつる祭り主であられました。


5:その寿命は金石のごとく永遠であり、その年数は太陽と同じくあるはずでしたのに、
なぜ突然にその身を土の上にほろぼし、わたしをひとりにしてしまわれたのでしょうか。
見ることもできず顧みることもできません。ああ、この青い大空よ、
どうやってこの喪に服することに堪えればよいというのでしょうか?

6:陛下の聡しさは吉凶を鑑みられてあられ(ご自分の最期についても鑑みられてあられ)、
そしてそのおからだはその存亡のときに達しました。
くわしく規則をつくり残されておられるので、これを受け継いで申しあげます。
今上陛下(曹叡)はつつしんでこの詔を奉じ、これに順じこれに従います。
すなわち、亡き陛下の死後の家をつくり、そのいしずえを首陽山におき、
その跡を堯帝の墓陵である穀林に擬し、偉大な堯帝を追うように称え、その唐の都をねらいます。
自然にある山や阪の地形に合わせて墓陵をつくり、木をうえず境界をつくらず、
塗車芻霊の儀礼を行ったり珠玉をおさめたりはいたしません。
百の神々が警護にはべり、その墓室につらなり、それによって陛下の墓道が完成であるとして、
日柄のよい日をえらんでそのおからだを墓陵におさめてかくし、
そこを儀式をとり行う表御殿として、もって御霊のお住まいになるところとします。
崩御のことさらに早いことを悼み、陛下を乗せて走る車の速くゆくことを感じます。
飛びゆく御魂はこのかるく遠い空に浮かび、黄泉の道に就いて蔵(しま)われることでしょう。
日・月・星の三つの光の明るさを背にし、暗く人目につかない墓穴にお帰りになることでしょう。
ひとたび行ってもうお戻りにならないことを嘆き、
奥深い廟の永遠にかんぬきで閉ざされることを痛みます。

うん、これは自分でやろうとしたら心折れるわ(笑)タイピングするだけで腱鞘炎になりそう。

便宜上、訳に段落番号をつけました。

とにかく曹植という人は比喩を巧みに使う人です。それゆえに、大げさなほどに強い気持ちが伝わる箇所がいくつもあります。読んでいて思わずもらい泣きしてしまいそうです。

それはさておき、誄っぽさ、というか故人の過去の功績をただ書き連ねた箇所って、これだけの分量の中で「4」段落しかないんですね。

詩ではないので構成が云々という話をするのもどうかと思いますが、「1」段落なんかはまさしく詩的。詩賦の出だしのような書き出しです。スケールの大きさというか、身体の小ささと想いの大きさの対比がすごいです。

「2」「3」は前置き、「4」が本題として、そこで終わってもいいはずなのに、その後に曹植自身の想いや考えが強く語られているのが印象的です。

小説の地の文の中で時折作者の心中に視点がシフトする現象がありますが、そんな感じです。公的文書であるはずなのにこれでいいのか!?というレベル。特に「5」段落なんかは、曹丕が曹操を悼んで詠んだ「短歌行」とも類似した詩的な表現です。

そして、ここでいう「日・月・星(原文では三光)」が何を喩えているのかが気になるところです。曹丕が受けてきたと曹植が感じていたものとは?

日と月と星では眩さの度合いが違います。一番大きな日たるものは皇帝として民を照らす威光、中くらいの月は家臣や家族などある程度近しい人へ向けられた心、一番小さな星は曹植自身が受けた木漏れ日のような兄の情…かな、とか考えてみました。

内容は私の予想なので違うかもしれませんが、きっと三光は曹丕が持っていたプラスの何かを喩えたもので、それらが闇へと帰していく寂しさと考えると、最後の文章の辻褄が合うんですよね。


儒教では兄であり主君である曹丕を曹植が讃えるのは当たり前で礼儀かもしれませんが、私はこれを見て体裁を気にした表面的な文章であるとは到底思えません。

「鏡のように澄みきったお心(心鏡万機)」などの表現をはじめ「4」段落ではこれでもかと言うほどに曹丕の功績と同時に性質を褒め称えています。

これが、心にもないことだったら却って失礼に当たるのではないかと思うのです。神のようとか言っちゃうのはさすがに大げさだと思いますけど…それほど喩えようもないほどの気持ちだったのでしょう。

それに、しっかり善政を行っていた様子も述べられていて、曹丕好きとしてはホッとします。


段落が前後しますが、「死志所存.皇雖殪没.天禄永延.」は曹丕自身が残した文章の論にも通じるところがありますね。身体はなくなっても残るものがあるということ。

ここで「志」という言葉を出してきたのは、曹植は曹丕が成し得なかった志を自分が生きているうちに叶えたい、もしくは引き受けたいという想いからではないでしょうか。だから「所存」と。

出典が漫画で申し訳ないですが、蒼天航路の曹丕の台詞、「私の世は奸雄の類が棲めぬ世だ」というのがものすごく印象に残っていて。

曹丕が作りたかった世は、奸雄がいない世、つまり平和な世だったんだと信じてやみません。

曹植は男子たるもの政に関わりたい、戦火に身を投じたいと言っていたことがありますが、兄と同じ志のもと助力したかったのではないでしょうか。

詩賦は得意だし好きだけど、直接それで世の中を変えられないことも分かっていて、彼は悩んだと思います。

曹丕は皇帝となってからも自ら出兵しちゃったりする人でした。ドラマ三国志では自分の寿命が残り短いことに感づいて焦ってした行動と解釈されていましたが、おそらく敵国(この場合は呉)にプレッシャーをかける策略だったのではないかと。曹丕は占いとか信じるタイプ(wだったようで、80まで生きられると信じてたみたいですし。(だから、半分しか生きずに死を迎える間際に「朝と夜を別々に数えたのか」と不平を漏らしてたという話がありますw)

そんな風に平和のために自らを危険に晒しても邁進していく兄を、曹植は本当に神々しいものと見ていたのかもしれません。

サブタイトルに「悼みと嘆き」としたのは、「悼み」は「4」段落のような公的文書っぽい(にしては表現がryですが)ところに表れる色、「嘆き」は「5」段落のような曹植個人の気持ちをストレートに綴ったところに表れる色、のふたつが混在していると感じたからです。


兄弟二人仲良く、平和な世で詩文を嗜むことができたら良かったのに…と、約1800年後の倭国から思いを馳せるわけです。