♪忘りらりんにゃ
昭和20年ぬ 大東亜戦争や
♪戻(むどぅ)てぃ 来(く)らんど
一人(ちゅり)ぬ 息子(せがれ)や 戦に行じゃんまま
忘れることができましょうか
昭和20年の大東亜戦争を
忘れることができましょうか
帰って来ないよ
一人の息子は戦争に行ったまま
帰ってこないよ
戦争を語り継ぐ、シマ唄。
この歌詞を唄うと、
苦しい時代を乗り越えてこられた
おじいちゃんやおばあちゃんの目
から、自然と涙が流れ落ちる。
私も唄いながら胸が締め付けられる。。
(↑職場の民俗資料室)
☆☆☆ある特攻花物語より☆☆☆
太平洋戦争末期。
九州の基地を飛び立った特攻隊員は
喜界島で整備や給油を行い、再び
沖縄へと飛び立っていった。
九州の基地で、地元の娘たちから
贈られた花を
「この花が無性に好きだ。
俺たちはどうせ天に昇るから、島に
移植してやろうと思ってさ。」
そう言い残し…
島の滑走路の脇にそっと残して
亡くなっていった。
戦後。
空港となった滑走路をオレンジ色
に飾るテンニンギクを島人たちは
「特攻花」
と呼んで平和の象徴とし、今でも
大切に守っている。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
8月15日終戦日。
今年で66年だね。。
あの頃の思いも胸に
今もなお強く咲き続ける
特攻花
まるで愛しい人の帰りを
ずっとずっと・・・
待ってるかのようだね…
☆☆☆ある特攻花物語より☆☆☆
太平洋戦争末期。
九州の基地を飛び立った特攻隊員は
喜界島で整備や給油を行い、再び
沖縄へと飛び立っていった。
九州の基地で、地元の娘たちから
贈られた花を
「この花が無性に好きだ。
俺たちはどうせ天に昇るから、島に
移植してやろうと思ってさ。」
そう言い残し…
島の滑走路の脇にそっと残して
亡くなっていった。
戦後。
空港となった滑走路をオレンジ色
に飾るテンニンギクを島人たちは
「特攻花」
と呼んで平和の象徴とし、今でも
大切に守っている。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
8月15日終戦日。
今年で66年だね。。
あの頃の思いも胸に
今もなお強く咲き続ける
特攻花
まるで愛しい人の帰りを
ずっとずっと・・・
待ってるかのようだね…
(↑奄美島唄アルバムCDジャケ写)