私たちは、本気で目覚めるためにコースを学んでいると思っていますが、本気で目覚めたいと思っている人など、この世界にはいないといえます。

 

この世界にいて、自分を肉体だと信じているならそれは自我なので、その私は決して目覚めたいとは望まないのです。

 

もし、そうでなければ、

それは「心を忘れた無垢なる顔の私」として、それを否忍している状態だといえます。


目覚めることを望んでいること自体が、自我のトリックと言えます。

 

 

しかし、

それでも私たちは目覚めるためにコースを学んでいます。

 

それはこの私が学んでいるように見えますが、心が学ぶために組まれた聖なるカリキュラムです。

 

それに沿って私たちは動かされているだけです。

 

 

そして、

学んで目覚めるのは心の自分である夢を見ている者であって、この私は目覚めとともに消えゆく夢の中の登場人物です。

 

なので、その夢の登場人物たちが全く目覚める気がなくても、なんの問題もないのです。

 

なぜなら、単にそういう設定だからです。

 

 

だから、認めていいんです。

 

「私はコースを学んでいながら、全く目覚める気などありません。」と。

 

これが、自我を認識することであり、

闇を明らかにして、正直に聖霊に明け渡すなら、それにより、心の自分が学ぶことができるからです。