見ているもの、感じているもの、考えていることに、意味を持たせたいという力動は本当にすごいです。
「無」を「有」にしたい。
「無」なのに「有」に仕立てたい。
という、
神の子の狂った願望を叶えようとする力。
全力で、嘘を真実とみなそうとするための力が、この宇宙・世界という空間全体、そしてその始まりから終わりである時間を作り出しています。
これがコップだと証明するために、
これが手だと証明するために、その全てを投じてありとあらゆる証拠を仕立て上げています。
この、時空全体がそのためにあるのです。
なぜなら、そのすべてが虚偽だとどこかでわかっているからです。
なので、私たちは、「無」を「有」とするために、多大な努力と力を使っています。
ならば、「無」を「無」とありのままに見る方がいかに容易いことでしょうか?
時間と空間を作り出し、嘘を真実だと証明し続ける必要もありません。
でも、私たちにはなぜそれができないのでしょうか?
イエスが言うように、「無」をありのままに見るなら、それは単に「無」だと分かってしまうからです。
すると、世界も私も他者も時間も、何の意味もないものとなり、重要性がなくなり消えてしまします。
この単純な事実が、ひどく怖くて恐ろしいからです。
なので、私たちは全力で、
これがコップだと証明し続けています。
これが私だ、これが正しいと証明し続けています。
そのために世界や肉体が必要で、そのためには罪・罪悪感・恐れが必要で、その源が、ありえない嘘を信じるという心の決断です。
それが「無」に意味を持たせたい力動の源であり、それが虚偽を実在のものとし続けたいという神の子の狂った願望だからです。
そこから抜け出すには、「ありえない嘘を信じる」と言う間違った決断を取り消すことです。
そのためには、その結果である自我の惨状を見て、
その間違った決断を取り消したいと望むことであり、これが私たちのできることであり、していくことだと言えるでしょう。