私たちはなぜコース(奇跡のコース・奇跡講座)を学んで実践しているのかというと、真の自己を思い出し、我が家に帰りたいと望んでいるからです。
そして、この世界の中では答えはもう見つからないとどこかで悟り、コースにその答えがあるとどこかで確信したからだと言えるでしょう。
とはいえ、
今私たちは分離を信じて自我と同一化しています。
なので、自我が学んでいるので、コースの教えや内容を曲解したり、テクニックにしてしまったり、この個人の平安や、この世界の中で幸せになるための方法や手段としてとらえたりしてしまいます。
コースの教えは、「世界はない」というのは中心的概念だと言えます。
なので、イエスは本気で私たちに、「本当に何もないんですよ。ここから一緒に見てごらん」と言い続けているわけですが、私たちはそれを学んでいながらも全く聞こうとはせず、受け入れようともしていません。
しかし、今見ているもの、聞いているもの、感じていること、信じていることを疑問視して、
時間を超え、解釈を超え、判断を超え、空間を超え、自分は何もわかっていないことがわかるなら、
確かに何もないということがわかってくるはずです。
それらは全て、間違った心の実在していない想念の現われであり、それを信じたくて信じているだけだとわかってくるからです。
すると、そこに世界はなく、他者もなく、私もいないはずです。
全て自分が見たくて見ている妄想であり、それを信じているだけだとわかるからです。
だから、イエスは「本当に何もないんですよ。ここから見てごらん。」と言っているわけなのです。
そして、私たちにできることはそれだけだからです。。。
と、ここで突然ですが、
「はじめ人間ギャートルズ」のエンディング曲である「やつらの足音のブルース」は、私たちの世代や、哲学や非二元・ノンデュアリティなどに興味のある方は、聞いたことがあるのではないかと思います。
その歌詞は、
「何にもない、何にもない。全く何にもない。
生まれた、生まれた、何が生まれた。
星が一つ暗い宇宙に生まれた。
星には夜があり、そして朝が訪れた。
なんにもない大地にただ風が吹いてた。」
(園山俊二作詞・かまやつひろし作曲
「やつらの足音のバラード」より)
と続いていきますが、
これによると、最初の出だしだけが真実で、その次からはすでに自我となります。
何も起きていないのに、妄想の中で、
宇宙という空間と、リニアな時間が作りだされ、光と闇があり、何もない大地とはいえ、そこには確かに世界が存在しています。
砂漠があって、そこに足跡も風もないのではなく、砂漠も足跡をつける者もそこに吹く風も、そう言う考え自体も何もないのです。
しかし、私たちが自我と同一化したレベルでは、「何もない」というと、この世界や個人を実在させた上で「何もない」と言っているのですが、イエスがいうのは、文字通り宇宙丸ごと、私という想念丸ごと「何もない」ということを言っています。
その全てが嘘であり、妄想だと。
なので、私たちは「何もない」と言葉では知っていても、それを真理として受け入れようとしていません。
なぜなら、その丸ごとの消滅を恐れているからです。
なので、この世界のレベルに合わせて、理解しているつもりになっています。
それが、「真理を幻想に持ち込む」ということでもあります。
なので、私たちは学んでいく必要があります。
私たちは、真理を思い出すために、自我が作り出したと信じているこの世界や肉体や時間を使っていきます。
そうして、それらを使って、それらがないということを学んでいきます。
幻想があると信じているので、幻想を使って、幻想などないことを学んでいくのです。
それが、自我の目的から聖霊の目的へと目的を変えるということになります。
そうして、私たちは本当に、イエスのいうレベルで何もないのだと完全に理解するまで、学んでいく必要があるということです。