攻撃か、祝福か。

 

兄弟が正気でない行動をする(かのように見える)とき、私は攻撃を差し出すのか、祝福を差し出すのか?

 

 

その時、

 

兄弟が実在していて、それが自分とは別々で、その罪を実在のものとしているなら、確実に攻撃を差し出すことになるだろう。

 

しかし、

 

それは自分の心の投影であり、それは自分が隠し持っている内側を見ているのであり、しかもそれは自分が望んで見ていることを思い出すなら。。。

 

 

他者はいない。

全部自分なんだ。

 

と気づく時、

 

それが「自分自身の愛を求める声」だと認識するなら、

 

妥協なく祝福を差し出す(=愛で応える)ことになるだろう。

 

 

そしてこの時、

「自他の利害の一致」を生きることになるのだろう。

 

 

 

あなたが彼に差し出せる祝福を、あなた自身が必要としている。(奇跡講座T7.Ⅶ.7:2.3)

 

あなたは本当に祝福されている。だが、この世界のなかでは、そのことを知らない。(奇跡講座T.7.in.1:1)

 

もしあなたが祝福されているのにそれを知らないのなら、そうに違いないと学ぶ必要がある。(奇跡講座T7.Ⅰ.1:1)

 

だからこそ奇跡は、あなたがすでに祝福されているという証拠をあなたに差し出すのである。(奇跡講座T7.Ⅰ.1:6)