学び初めの頃の実践について。
コース(奇跡のコース・奇跡講座)の実践は今すぐにでも始められます。
学び初めの頃は、
「形而上学も身についていないし、何を言っているのかあまりわからないところから、実践しなさいと言われても〜。」
となりがちです。
だから、
もう少し理解してから、
とか、
もう少し学んでからやろう。
というように、
気づかないうちに、学ばないことを正当化して時間を引き伸ばしてしまいます。
これが悪いわけではないのですが、
学んでいるなら、学んでいきたいなら、学んだところから少しずつでも実践していかないと、今学んだことすら身についてはきません。
イエスも言っているように、私たちにはわからなくて当たり前、できなくて当たり前なので、わからないなりに、わかるところから学んでいこうとする意欲と努力が必要なのです。
なので、できなくても、わからなくても、やりたくなくても、やってみようとする意欲は大切です。
例えば、
学びはじめのころは「聖霊」の意味すらよくわかりませんが、何か私たちを助けてくれる存在だということはわかるはずです。
だから、せめて1日に1.2回でも聖霊のことを思い出し、信頼を深めていこうという実践をしていくなら、
それを思い出せない時には、「自分は全然聖霊を信頼していないなー」とか、
「あれ?どうも聖霊を擬人化しているな〜」とか、何かがわかってくるはずです。
それが少しづつ積み重なって実践による学びとなっていきます。
そして、コースは内側を見ていくものなので、内側を見る練習は必要と言えます。
しかし、まだ形而上学が入っていないうちは、「何をどのように見るのかわからないから無理!」となりそうですが、
それでも、内側を見るということを徐々に始めていかないと、私たちはそもそも内側を見たくないのですから、それが実践の始まりとなります。
初めのうちは個人レベルの感情や思考で構いません。
内側を見る練習として、今自分が感じていること、考えていることを見たり書き出したりしていくと(ジャーナリング)、「あれ?」と疑問に思ったり、「ほんとだ!なんかこんなこと言ってたな〜」という気づきが湧いてくるはずです。
この、あれ?とか、ほんとだ〜!が実践による学びとなるのです。
なので、
これらが、コースの赦しの実践として正しかろうが間違っていようが、その一つ一つに無駄なことなど全くありません。
「ベストキッド」という映画を見たことがある方は思い出してみてください。
主人公は、空手の達人になりたいのに、初めのうちは空手の型すら教えてもらえずに、
「こんなことして何になるの?」というような全然関係ないかのように見える練習をされられているのですが、
後になると、それが非常に役立つ大切な訓練の一つだったとわかってきます。
なので、一つ一つの学びと実践が、
私たちに起こるかのように見えるすべてが、
一なる帰還のためのカリキュラムとして、自分自身で設置しているのです。
そうして受け入れていくことにより、私たちの聖霊への「信頼」も深まってくるでしょう。
さらに、先程も触れましたが、コースは心理学ベースという観点からも、内側を見ることは必須となります。
というか、
コースは内側のことしか書かれていません。
なので、
まずは内側を見ることを習慣付けていくこと自体が、すでに実践の始まりとなっているのです。
たとえ無駄だと思われるようなことでも、
小さなことからコツコツとやっていく。
これは無駄とか、これは役立つと判断しているのは誰なのでしょう?と疑問視するなら、
私たちには、「何が良くて何が悪いかもわかっていない」ということもわかってくるはずです。
すると、
それをやるかやらないか。
できてもできなくてもやる。
そして、
いつやるの?
今でしょ!
笑
となってきます。
私もまだまだこのような実践ができているとは言えませんが、
これを心に留めて一歩一歩やっていくことが、決して無駄ではないと言えるのは、
形而上学が身についてきてからも、これが実践のベースとなっていくからです。
これは学び初めでも、学びが進んできてからも変わることはありません。
だから、
今すぐにでも実践は始められるということです。