1月に篠田桃紅のご本について一言通信に書かせてもらいましたが、

今回は着るものについて新しい視点をもらったように感じています。

『一〇五歳、死ねないのも困るのよ』篠田桃紅 から一部を抜粋します。
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きものは謙虚、洋服は尊大 
今どき、私のようにきもので暮らしている人はめったにいないでしょう。

私も、洋服が私の気に入れば着ますが、洋服のつくりがあまり好きではないので、

ずっときものです。

どうしてあんな融通のきかない、洋服というものを生み出したのでしょう、と思っているくらいです。
きものも洋服も、身につける、という事においては同じです。
でもまったく違うのは、きものは人の体を包むもの、まとうものです。

洋服は包むものではなくて、人を入れるものです。

形の決まったもののなかに、生身の人が入ります。
そこには基本的な精神、ものと人の間柄の違いがあると思います。
つまり着物は人に対して非常に謙虚です。

一方の洋服は人を規制しています。私のなかに入りなさい。

私はこれ以上大きくも小さくもなりません、と言っているのが洋服です。

着物は、人を主人として扱い、太ろうが痩せようが包みます。
私は人を主人とする着物を好みます。(中略) 

風呂敷と紙袋の違いも同じことが言えます。(中略)

これを日本と西欧の文化の違いと言えばそれまでですが、私にとっては精神的に大きな違いがあります。
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風呂敷の変幻自在なところについてはよく耳にしていますが、

きものについてはそんな風に考えたことがありませんでした~
でも洋服について「私のなかに入りなさい。私はこれ以上大きくも小さくもなりません、

と言っているのが洋服です。」と言われれば、

現にすこし太れば服に合わせて何とか痩せなきゃと頑張るのが今の私たち。

まさに服に支配されている、と言っても過言ではありません(失笑)
洋服に慣らされてしまっている(?)現代の私たちにとっては

きものは手間がかかるもの、着ていて疲れるものというような感覚もあるかもしれません。

桃紅のきもの姿の写真を見ると

本当に楽そうにきものをまとっている、という言葉がぴったりします。
そういえば祖母の着物姿なども日常着として来ていた人たちは
きもの本来の良さを知っていたのだろうと思います。

きものは謙虚、洋服は尊大
と言われて自分がいつの間にか洋服に洗脳されていて窮屈さに気づかず

反対に窮屈さを楽しんでいる風にも感じてしまいました。
「きものは人の体を包むもの、まとうもの」

人の自然な楽な生き方にも通じる素敵なことばと仕合わせることができました。


今日はもうすぐ20日(土)になろうとしている時間になってしまいました。

過ごしやすい陽気になってきました。
明日もどうぞお健やかにお過ごしください🍀

<ライター:伊藤惠子>