昨日ちょっと「正しい大人の努力って何だろう?」と考えていたのです。

 

というのは、「努力って、努力家ほどできなくなるものじゃないか?」と思ったからなのです。

 

ここで言う「努力家」って、日々

 

・「頑張らなくちゃ」

 

とか

 

・「変わらなきゃ」

 

と思っている人だと思います。

 

2019年に入る前に「今年こそは手帳をつけよう」とか「新しい習慣を身に着けよう」とか「ダメな私の習慣を変えなきゃ」と決意してきた人です。

 

もちろん、その“努力の軌道”が、その人にとってすごく良い変化の跳躍路線に結びつくことって多くあると思います。

 

でも、僕自身もすごく経験があるのですが、2019年に新しく買った記録帳が最初の1ページには何か書いて、それ以降は白紙とか。

 

「私変わらなきゃ!」

 

という決意の元、何らかの新しい習慣を身に着けようとして、そこで気づかずに挫折をした時のダメージって、自分に対してきちんとしている人ほど大きいです。

 

僕は、努力ってすごく大切なものだと思うのですが、自分なりに「努力に対する流儀」というものを持っています。

 

それは

 

毎日続けられる最底辺にあるものを努力の基準にする。

 

そして

 

ステップアップを焦らない

 

です。たとえばなんですけど、僕は日々の努力の基盤に「起きて、ウロウロする」というのがあります。部屋の中です。

 

そして、「起きて、ウロウロしている」最中とか、それをやる前に決して「ステップアップを焦らない」ように注意します。

 

「起きて、ウロウロする」を努力の目標にして、たとえばそれを15日間連続してやっていった時って、自分の中に何か変わる種が土に対して定着します。

 

それを、「そんなくだらないことを続けるんじゃなくて、洗濯しなきゃ、ジョギングしなきゃ、仕事頑張んなきゃ!日記書かなきゃ!ブログ書かなきゃ!明るくならなきゃ!」という、ステップアップの洪水をぶっかけると、何かひとつの種が育つ前に、その種は腐ります。

 

ステップアップを急がずに、何かの種を育てる。

 

ステップアップの決意なんて、それを決めた時だけ高揚感を得られるものだけで、上がった血糖値のように、後は眠くなっちゃう危険性があるから。

 

以上のようなことが、10代の頃まで多く言われていた「気合い入れろ。とにかくやってみろ」と言われていた努力に対する、正しい大人の努力の一つなんじゃないかと僕は思います。