最近「テクニックに依拠したコミュニケーション」というのをすごく考えていて、たとえば、“怒りんぼ”の人がいたとしますよね。
その、怒りんぼの人って「どのタイミングで怒れば周りが従ってくれるか」とか、そういうことを、結構もう意識しなくても出来ちゃっていると思うのです。
「もう一軒行こうよ。飲み足りないわ」
「えー、明日仕事早いって言ったじゃない。それに、もう結構お互い飲んだし」
「あなたはいつもそう!私が楽しもうとすると、いっつもそうやって気分が落ちることを言ってくる!」
「・・・わかった。ごめん。じゃあもう一軒だけね」
みたいな。
それで言うなら、僕なんかも、プライベートで「あ、じゃあもういいよ」とふてくされることって、お恥ずかしい話であります。ごめんなさい。
でも、「あ、じゃあもういいよ」って、全然「もう良くない」んですよね。その「ふてくされる」という技術を用いることで、相手とのコミュニケーションに対して、支配権を持とうとしている。
コミュニケーションって、すごく多彩で、すごく各自の持ち武器みたいなものがあって、それを眺めるのはすごく好きなんです。
でも、この文章で何が言いたいのかと言うと
「勝ちパターンを掴んできたコミュニケーションのテクニックって、実はすごく怖いものなんじゃないか」
ということなのです。
自分が「癖」のようにやっているコミュニケーションのテクニックがあって、それを出すと「伝家の宝刀」のように周りが従っていってくれる。つまり、コミュニケーションにおいて「まぁ、それでいいよ」と相手が従ってくれて、勝ち続けることができる。
でも、そういう「コミュニケーションのテクニックによる、半ば強引な押し出し」って、それによって99勝をしたとしても、1回の負けによって結構大きなものを失うんじゃないかと思うのです。99勝がそこにあったとしても、半分以上は「相手が面倒臭がって、負けてくれたもの」であったりするかも知れないのだし。
自分が無意識で、この無意識で、意識されていないってところがすごく難しいところなのですが、「勝てるコミュニケーションの定型」で勝ち続けていると思い込んでいるようで、実はすごく信用を失ってしまうってこともあるのかも知れない。
その場で鏡で見られるわけではないけど、自分が怒ったり、ムキになったり、強引に何かを通したい時って、多分、僕らがそういうことをやっている時って、結構な確率で「ずっと同じ表情」をしていると思うのです。テクニックによって押し出そうとしている表情。
誰かが誰かを信用するって、「表情を実際に見て」ということが多いんじゃないか。
顔の表情筋にも表情はあるし、文章にも表情があるし、色々なものに表情がある。
コミュニケーションって、その場で勝つことが大事なんじゃなくて(商談とかディベートとかは話は別だけど)、その場で負けても、ゆくゆくで「色々な表情を持っているコミュニケーション」が、実は「信用される」ということで勝っていくんじゃないか。
ほぼ日の糸井重里さんと対談させて頂いた
を再び見て、そういうことを考えました。
おしまい。