今はもうあんまり書けていないのですが、18歳の頃から「メモ兼日記」みたいなものをA4の大学ノートに書き続けて、多分それがもう60冊ぐらいになって実家においてあります。
そのノートには
・好きで研究していた本の引用や書き写し
・どういうギャグが女の子にウケるかの考案
・そのギャグが粉砕した後の、自分に対する慰めの文句(あなたは良くやった。センスが合わなかっただけ)
・大学を辞めてやろう
・私が大学を中退するに至った10の理由
・大学中退計画が失敗し、自分を慰める日記
・ベンチに座っていた男性が、さりげなく隣の女性に向かっていった一言
など、そういうことがズラーッと山ほど書いてあって、その大半が「好戦的で、何も知らなくて、沼の底にいくまで考え抜こうとしていて、失敗ばかりで」、読むのが恥ずかしい。なので、そのまま実家に置き続けようと思っています。
ただ、たまに実家に帰ってその日記を読み返すと、多分、昔って「生きるために書いていた」という現実がすごくあったと思いました。
僕は、人と喋るのが苦手だったから、「昨日テレビ見た?」とか、そういう話をあんまりできなかったのです。
他人から回答が示されるシーンの、「あー、そういうことだったんだ」というようなことが、「人と話すのが苦手」という特性が幸か不幸かあったから、自分で突き詰めて「あー、そういうことだったんだ」と納得していく感覚が、いつしか友達になっていったような気がします。
何か、コミュニケーションが苦手という感覚があったから、それが「外国の自然にひとり取り残されたみたい」な感じがあって、だから、「この葉っぱはこういう役に立つ」とか、そういうメモや考えをたくさん残すことによって、今の自分が出来上がったのかなぁって。
人に聞けば回答が得られる話も、自分で時間をかけてひたすらメモをして考えていくって、それは間違いなくその人の財産になると思いました。
今ではもちろん人と話をする素晴らしさも知っています。でも、人と話をするという行為には「誰かの価値観に合わせて、わかったふりをする」という一面も必ず含まれていたりもします。
だから、何か僕は今でも他人の「う~ん」と考えて、答えが出ない問題に対して、自分なりの言葉で説明しようとしている仕草が好きです。
楽しいことも、苦しいことも、多分その背後に「生きるためにやっている」という感覚があると、もうちょっと頑張って取り組めたりする。
知らないから、知っていきたい。
それが多分僕なりの生きる理由です。