日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

かつての旧下関駅と旧山陽ホテルは現在の成田国際空港と同じで、新聞記者達が通過する著名人達を待ち構えていた。これに対し、地元、下関では通過する著名文化人を招いての文化交流に熱中していた。

今では関門トンネルで素通りされている。下関の魅力を磨き上げて逗留してもらう努力が大切です。


参考

下関文化 武者小路ら続々来関

旧下関駅(細江町)前にあった山陽ホテルが、全国の新聞社からはえぬきの記者が集まっていたことはすでに触れた。

それもこれも、このホテルで張っておれば、日本の動きをキャッチできるからというわけだが、元·伊勢安の経営者で現在東京で輸入民芸品店「グラナダ」 を経営している河村幸次郎さんも、下関にいたころはこの山陽ホテルに網を張っていた一人だった。

もっとも、報道関係が政治家や軍人を主に追っていたのに対し、河村さんはもっぱら文化関係。最初は河村さんがプライベートにこうした文化入らを接待していたが、そのうちに一人では惜しい、もっと多くの人たちと一緒に歓迎し、下関文化に刺激を与えようと「火星会」を結成した。昭和の初めごろのことである。

当時の下関医師会長、沢井順一郎をはじめ、下関の一流銀行支店長らも会員として加わった。毎週火曜日に山陽ホテルで例会を開き、そのつど中央の文化人を招いて親睦会を開いたり、名画を上映したりしていた。

火曜日の「火」と、人間という意味あいいでのスター「星」をとって「火星会」と名づけたが、かなりエリート意識の高い団体となり入会希望者が出た場合には全員投票で決めた。碁石を使って、白が80%以上なら入会OKというしだい。

リベラリストの集まりではあったが、火星会という名前がかなり誤解されたイメージとなりやすかったようで、戦争の激化に伴って、特高がよく調べに来ていたという。

掲載の写真はいずれも山陽ホテルでの火星会のメンバーらが昭和初年に写したもので、武者小路実篤は、昭和八年十二月十八日午後六時に「日向新しい村」からの帰途、山陽ホテルで夕食をとり、このあと十時まで座談会。そのあと名池町にあった河村さんの自宅を訪れたという。このあと武者小路は昭和十一年五月二日にも来関、壇之浦の料亭で食事をとったりしたあと門司港から白山丸で渡欧した。

昭和六年五月には女優·水谷八重子一行が来関、火星会が山陽ホテルで懇談会を開いている。かれんさに満ちあふれた若き水谷八重子だった。

このほか、洋画家で戦後フランスに帰化した藤田嗣治や、帝劇オペラ·浅草オペラで活躍した舞踊家·石井漠も何度となく下関を訪れ、下関での洋舞への関心を大正期から高めた。

掲載の写真はいずれも山陽ホテルで写されたものだが、当時の同ホテルがいかに豪華なものであったか、室内の内装にもその一端がうかがえる。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)(彦島のけしきより)


下関文化 文壇に注目の「燭台」

関門を通った文化人は数限りない。今でも多い。が昔と今で違うのは、こうした人たちのうち、下関に足をとめ、一夜の宿を求める人がめっきりと減ったということだ。下関での公演に臨んでも必ずしも宿泊するとは限らない。そのまま関門を渡って九州に泊るケースも多いようだ。

しかし、トンネルが開通するまでの下関は、逆にほとんどそのようなことはなかった。地理的条件、交通事情の変化だけではない。当時の下関に、こうした人たちが頼りとする人、施設があり、また町としての魅力もあったのである。

高浜虚子は何度となく下関に立寄ったが、このとき詠んだ「俳諧のために河豚食うおとこ哉」は有名である。大正から昭和にかけては里見弴、浜本浩ら文壇人をはじめ、声楽家の三浦環、藤原義江、舞踊家の石井漠そのほか画家や俳優らにすすんで自宅を一夜の宿として貸した河村さんの存在は決して忘れることはできない。

「そうですね。あの当時は随分いろいろな方が泊まられましたね。不思議なもので, 一度泊まられると、そのあと何度も来られましてね。ヘレン·ケラーは確か三度ばかり宿泊しています。ここ(前田友之浦)は海峡がすぐ下に見えて眺めのいいせいもあったんでしょう」と河村さん。下関を訪れた歌人はほとんど例外なく関門海峡をうたっているが、ここら辺りにも下関の往時の人気要因があったのかもしれない。

ついでながら、河村さん所有の写真き見せてもらうと、若き日の山本安英の顔も見える築地小劇場一行、国際スター·早川雪洲、ピアスニト·原千恵子らの来関記念撮影写真など、驚くばかりのものがあった。

昭和七年八月、山田耕筰が下関を訪れ、下関高女(南高の前身)で生徒らと一緒に写った写真も出てきた。山田耕筰は「さんたり文化の流れ…」で知られる下関市歌の作曲者。この年、市歌制定記念に来鬨、下関高女で「女性と音楽」と題して記念講演したさいの写真である。

こうした相次ぐ文化人の来関に下関文化が刺激を受けぬわけはなく、各分野で文化熱は高まった。
大正初年に発刊された文芸雑誌「海峡」大正十二年刊行の文芸誌「燭台」などはその最たるもので、特に燭台は号を重ねるごとに充実、完全に地方誌の域を脱したものであり、中央にまでその名を知られたほどだった。

しかし、これも昭和十年前後まで。下関の総合文芸雑誌は不振の一途をたどるわけだが、この不振の理由について、昭和三十三年刊行の「下関市史」は興味深い解釈を示している。つまり「下関文芸界の低調ということよりも、むしろ燭台以来、文壇、俳壇、歌壇と各自の分野の中だけで動いていこうとする傾向が強くなったからだ」と。

さて、今の下関はどうか…。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)(彦島のけしきより)