マヤやインカより早く、日本では縄文時代に太陽観測を行っていた | 日本の歴史と日本人のルーツ

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16世紀のスペインの侵入で滅びたマヤ文明のマヤ暦や2300年前(日本の弥生時代)のインカ帝国の太陽観測所より古く、縄文時代の日本に太陽観測所があった。これは金山巨石群と呼ばれる縄文遺跡で、太陽暦を求めるものであった。

縄文時代から海人族安曇氏の同族は太平洋を広く航海し、太平洋から米大陸にまで版図を広げたが、太陽暦は太平洋などの大海を航海するための航海術に不可欠なものであった。太陽観測から太陽暦を作成し航海術に反映する知識が、米大陸に到達してから更に発展して、マヤ暦にまでなったと考えられる。


参考

① 金山巨石群は縄文期の暦(2010年06月10日/朝日新聞)

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縄文期の人々が暦にしたという説のある金山巨石群(下呂市金山町岩瀬)で、米国の研究者らが、夏至の時期に差し込む太陽光を観測して説を検証した。21日の夏至に合わせて、18~22日には一般向けの観察会が開かれる。 

金山巨石群は、県史跡「岩屋岩蔭遺跡」など三つの巨石群からなる。地元の研究団体「金山巨石群調査資料室」の小林由来代表らが、1998年から調査してきた。現行のグレゴリオ暦に近い精度で、古代人がうるう年を観測した可能性があるとしている。

同資料室の英語版のホームページが注目されて、昨年から海外の研究者が訪れるようになった。1日には、元カリフォルニア州立大教授のハリエット・ナツヤマ博士(天体物理学)らが訪問。夏至の約20日前に巨石に差し込む光の幅が、巨石の表面の刻みの幅と一致することを確かめた。同資料室によると、この巨石には大中小の三つの刻みがあり、夏至とその前後の日に、それぞれ光の幅が一致する仕組みだという。 

ナツヤマ博士はこれまでに英国のストーンヘンジ、メキシコのチチェン・イッツァ遺跡なども研究してきた。「古代人は現代人より自然を熟知していた。巨石群を観察しながら、古代人が感じていた自然とのつながりを現代人に感じてもらえれば」と話す。

観察会は午前6時~午後5時半。問い合わせは同資料室(0576・34・0073)。(高木文子)


② 金山巨石群の古代太陽暦(参考)

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まずここが発見されたエピソードからお話します。 もともと巨石群のひとつが妙見神社として祀られており、その周辺から信仰によって使用されたと思われる食器類から縄文土器やらなんやら出てきてたりして県指定の岩屋岩陰遺跡となった。

 普通はそれだけで終わるところを、地元の絵描きさんが岩に線刻があるのを発見し、直感でこれはなにかあることを確信して通いつめ、冬至、春分、夏至、秋分の太陽が寸分の狂いもなく巨石に仕掛けられた隙間からスポット光として出現することなど、天体を映し出す驚異的な観測装置として多くの発見をしたのがはじまり。 

この人こそ、金山町のそば処おおふくやのご主人でもある小林さんです。最初は県や町の役人や考古学の専門家が笑い飛ばす中、個人で地道に調査を続けた結果ようやくここ数年で認められるようになり、海外で発表したり報道されたりで知名度があがったので、最近は金山町あげての観光の目玉となったわけです...  

縄文族ネットワーク [太陽の道] トピック(2007年3月作成) 

岐阜県下呂市金山町に、「金山巨石群」と呼ばれる日本を代表する遺跡があります。 巨石の石組みは調査により、 イギリスのストーンヘンジのように太陽暦として機能するように設計され建設されたと推定されています。 

世界中には他にも、地平線での日の出・日の入りを観測したと思われる古代巨石建造物が数多くあります。 金山町の巨石群は山中にあるため、地平線上で太陽を観測することはできません。 しかし太陽が通る道筋、つまり太陽軌跡の観測(例えば山から昇る太陽の光が巨石間のどの位置に射込むかの把握)によって、夏至や冬至、春分や秋分など1年の節目の日を知ることができます。 

金山町の3ヶ所にある巨石群(岩屋岩蔭遺跡巨石群、線刻石のある巨石群、東の山巨石群)は、いずれもこのような節目の日を読み取ることによって、1年間の周期を知ることができます。 特定の期間に日の光が、巨石と巨石の隙間や空洞へ射込む、またはその頃だけは射込まないといった仕組みになっています。 

◆縄文時代の気候と中部山岳地域の遺跡について

縄文時代早期前半(9000年前頃)
   年平均気温が現在より2-3℃低い状態 
 晩氷期が去った日本列島に温帯落葉樹林が拡大する 

縄文時代前期(6000年前頃)
    年平均気温が現在より2-3℃高い状態 
 照葉樹林が拡大し、温帯落葉樹林は後退 

そして5000~4000年前、西日本の照葉樹林帯の遺跡数は減少するのに対して、同じ時期、中部山岳の八ヶ岳のような地域では遺跡が一挙に4倍近く増加。 照葉樹林を捨てて、ナラ・クリ林が多い地方へ人口が移動。 この時代の中部山岳の遺跡数の増加率は、自然増加とは考えられないほど高い。 

そして縄文中期を通して気温は少しずつ下がっていく。 それが急激に落ち込むのは4100年ほど前、エジプトではナイル川の水位が低下し古王国時代が終焉する時期にあたる。 中部山岳でも急激な気候変動に耐えることができず、遺跡数は激減し、その一部は西日本に移動したと考えられています。 

◆エジプト遺跡との共通性

エジプト遺跡にも、金山巨石群と同じように遺跡内に射し込む太陽光で冬至(夏至)をはさんだ約120日間を知ることができます。 

◆ストーンヘンジ(紀元前2000年頃)と天体運行について 

恒星が徐々にその位置を変えるのに対して、黄道の傾き約24度は、ほぼ一定している。 つまり、太陽の南北の動きも年々歳々、何千年経過しようと変化しない。 4000余年も前に建てられて、主軸が日出の北限の方向を示すように定められたストーンヘンジが、今もって北限の方向を示すのはこのためです。 実は黄道の傾きもゆっくりとではあるが変化しているのに、太陽が今でもストーンヘンジと整列線をなすのは、ヒール・ストーンがちょうど具合のいい方向にかしぐ傾向を見せているためです。 

◆巨石群と北極星との関係

世界中には星の動きによって1年を測ったと言われる例がいくつかあります。古代バビロニアは太陰太陽暦を用いながら春分の頃のカペラ(ぎょしゃ座のα星)が現れる時期によって1年の長さを測っていました。 また、エジプトでは古王国時代(B.C.2900~B.C.2200頃)、シリウス(おおいぬ座のα星)が、太陽が東から昇る直前に現れる時期を正確に測ることによって、1年が365.25日であることまでも知っていました。 

現在の北極星はポラリス(こぐま座のα星)ですが、地球の歳差運動により北極星は時代と共に変わっていきます。 コンピュータのシミュレーションで古代に遡ってみたところ、紀元前2800年頃にトゥバーン(りゅう座のα星)が北極星の位置にありました。 日本では縄文時代中期です。 古代エジプトでは、ギザのピラミッド内の通気孔がこのトゥバーンの位置を定めていたことはよく知られています。 

※参考サイト 

日本の考古天文学と巨石群  『金山巨石群と太陽暦』 
http://www.seiryu.ne.jp/~kankou-kanayama/kyoseki/ 
▽春分の太陽観測会@金山巨石群 
 http://mixi.jp/view_event.pl?id=29195415&comm_id=1581098 
▽春分と秋分は日願(ひがん)の太陽信仰 
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=16294935&comm_id=1581098 
▽マヤ遺跡のククルカン降臨現象 ~春分秋分 
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=16298088&comm_id=1581098 
▽足摺巨石群 ~唐人駄場のストーンサークル 
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=17209170&comm_id=1581098 
▽山添村の磐座と鍋倉渓 ~地上に投影された天の川 
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=16738283&comm_id=1581098 
▽朝鳥明神の冬至祭(岐阜県揖斐川町) 
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=14289936&comm_id=1581098 


③ 金山巨石群(参考)

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④ マヤ暦は太陽歴

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⑤ ペルーの太陽観測所(参考)

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⑥ 太陽歴は古代のエジプト、ユダヤ、羌族(チャン族)から、遅くとも邪馬台国の時代には日本列島に渡来した(参考)


⑦ 海人族安曇氏と同族のポリネシア人はカヌーで自由に太平洋を航海した(参考)


⑧ 千島列島、アリューシャン列島経由での船の航海が米大陸への最短ルート(参考)


⑨ 古代の航海術(ヤフー知恵袋より)

BC1490、ハトシェプスト女王はプントへ交易を行い、BC1200頃にはオデュッセウスが漂流航海、BC613にはフェニキア人がアフリカ周航、BC5世紀にはカルタゴ人がコーンウェルに着く…などなど、古代においても長距離航海は盛んに行われていました。

太陽や北極星、また特定の星座の位置によって現在地を知る航海術は、古代からフェニキア、ヴァイキング、ポリネシアンなどの海洋民族によって確立されていました。

天体観測によって得た情報と、経験則から来る海域ごとの風向や潮流、海水の色などの知識を組み合わせてかなり正確に現在地点を知っていたようです。

面白いのが、鳥を利用した方法です。船上から陸地までの裸眼視認距離は約2キロですが、上空を飛ぶ鳥は2~30キロまで見渡せることから、船に鳥を乗せておき、陸地が近くなったと思われる地点でカゴから離します。鳥は人よりも容易に陸地を見つけ、陸地に向けて飛んでいきますので船はその方向を追えばよい、と言うわけです。

聖書、ノアの箱船で大洪水後にハトを放し、オリーブの枝を加えて帰ってきたという記述があります。これも、古代の航海人らがこうした航海術を使っていたという裏付けでもあります。

また、方位磁石に変わるもの、とのことですが、常に一定の方向を指す磁石の性質は古代から知られていました。西洋ではアリストテレス、東洋では墨子が、それぞれ磁石の性質について書き残しています。

BC63生まれのストラボンが著した、BC310のマッサリア人ピュテアスのブリタニアや北海への航海記の中で、驚くべきことに、緯度の計測、月と潮の満ち引きの関係、磁石の偏差(北極点と北磁点の誤差)についてすら書き残しています。

星や星座の位置に加え、鳥を利用した方法、磁石を利用した方法、潮汐や潮流の知識などなど、レーダーやGPSのない古代においてもかなり正確な航海術があったと思われます。